ブログの文体

茂木健一郎 クオリア日記』には、話し言葉、つまり「対話性」を生かした文体練習、実験の趣きを強く感じますが、茂木さんご自身、その点に、<小林秀雄プラトン、金森譲>経由でふれていらっしゃる。面白い。
2006/09/05「時にキラリと宝石のように輝くなにか」http://kenmogi.cocolog-nifty.com/qualia/2006/09/post_7f8d.html

小林秀雄の散文が好きですが、一方で
青山二郎に、お前の書く文章よりも座談の
方がはるかにおもしろい、と言われもしている。
 プラトン話し言葉の方が書き言葉より
上だと考えていましたが、話し言葉のエラン・
ヴィタールのようなものを生かした文体を
つくるというのは課題で、(略)」
(中略)
 「ダンサーの金森穣さんとお話した時、
金森さんが、身体表現を本当に突きつめようと
思ったら、おもいきりゆっくり動かして、
その際にどのような筋肉がどうかかわっているのか、
それを把握してからじゃないとダメだと言って
いました」

金森さんの箇所では、詩人の吉増剛造さんの朗読を連想しました。「身体表現」を「言語表現」に置き換えると、分かります。「おもいきりゆっくり」発声することによって、話し言葉特有の重力から解放されて、「詩」へのひとつの通路がひらけるような気がします。プラトンはそんな異常さをまともな言葉、対話から排除した。
ちなみに、このエントリー全体が「対話」構成になっています。お見事。

そして、『アラこれは便利だ!』では、さらに過激で魂消(たまげ)た「日本語練習」、「日本語実験」が理解しやすい既存の諸文脈を脱構築(アッ)しながら展開されています。異常に面白い。
http://d.hatena.ne.jp/KotoriKoToriko/20060904/p1
KotoriKoTorikoさんは書き言葉の常識的な約束事の境界線上を行き来しながら、「日本語」が生き生きと伝わる「非常識なルール」を次々と発見していく。例えば、日本語における仮名と真名(漢字)の常識的な結びつけ方を揺さぶり、仮名と真名とが正しく闘争しているような、日本語が成立する現場に読者の意識を引き戻すような日本語テキストの新しい可能性(アッ)を拓いている。そんなKotoriKoTorikoさんが取り組んでいる山下清研究と講談テキストの電子化にも私は注目しています。
http://d.hatena.ne.jp/KotoriKoToriko/20060905/p1
なお、「講談」に関しては、次のサイトが参考になります。
日本講談協会ホームページ J-Kodan」http://www.j-kodan.com/main.htm
甲南女子大学菊池真一氏による「講談研究」http://www.konan-wu.ac.jp/~kikuchi/kodan/