石牟礼道子『神々の村』

気になる本紹介記事だった。何かがひっかかる。

作家の石牟礼道子さんによる『苦海浄土』3部作の第2部『神々の村』が藤原書店から単行本として出た。水俣病が社会問題化する以前の第1部『苦海浄土』と、民事訴訟勝訴後のチッソ本社座り込みに題材を取った第3部『天の魚』をつなぐ、裁判中の水俣病事件の様々が、全集以外で読めるようになった。

『神々の村』は、69年6月の提訴から70年11月のチッソ株主総会までを記す。水俣病患者らの訴訟派が注目を集めた時期だが、単にその動きや支援団体の足跡をたどったものではない。

株主総会で、患者たちのご詠歌が響く。一方、訴訟に加わらず行政に任せた一任派の山本亦由・初代水俣病患者家族互助会長に、共同体での義人としての存在を読み取ってもいる。近代に踏みにじられる、前近代の基層にあった残光を、祈りと共に書きとどめた。

第2部は、井上光晴編集の雑誌「辺境」に連載されたが、未完のまま中断。04年4月に藤原書店から刊行が始まった全集『不知火(しらぬい)』の第1回配本を、第1部と第2部の合本とするため、最終章「実る子」の後半を執筆した。三十数年ぶりの完成。第3部『天の魚』74年に出ており、単行本を望む声を多かった。

石牟礼さんは「登場していただいた方々も亡くなられ、ご仏前に本を供えたいと思っていたが、私も体が不自由になってしまって。株主総会の時、患者さんにちゃんと書いてくださいと言われた約束がやっと果たせた気がします」と話している。税込み2520円。(編集委員・福島健治)
朝日新聞2006年11月13日

『神々の村』はまだ手に入れていない。この記事を切り抜いて手帳に挿んで1週間持ち歩き、色んな場所で何度も読んだ。何にひっかかるのだろう、と思いながら。ひっかかるのは次の一節だと気がついた。

一方、訴訟に加わらず行政に任せた一任派の山本亦由・初代水俣病患者家族互助会長に、共同体での義人としての存在を読み取ってもいる。近代に踏みにじられる、前近代の基層にあった残光を、祈りと共に書きとどめた。

この二文の間の「つながり」は不明だが、前文はおそらく『神々の村』における最も深く難解な箇所の指摘であり、後文は『神々の村』全体のトーンを表現したものである。

しかし私にはその二文が多重露光の写真のように重なって見えるような気がしていた。

訴訟に加わらず行政に任せた……共同体での義人としての存在
近代に踏みにじられる……前近代の基層にあった残光……祈り

義人とは自分の身を投げ出して、他人に尽くす人のことだが、「訴訟に加わらず行政に任せた」ことは、常識的には「義人」ではなく、むしろ水俣病患者と家族という「共同体」にとっての「裏切り者」ではないのか。しかし、そうではないとしたら、それはなぜか。訴訟では解決しない人間の普遍的な問題がそこに現れているように感じる。加害者側、行政側の人間をも包み込んだより大きな共同体を「信頼する(任せる)」ことができなければ、つまり近代を突き破らなければ(?)、本当の解決にはならない。そのような最も深い倫理観としての「義」を貫くことは、「前近代の基層にあった残光」によって「神々」、すなわち、人を「信頼」の絆で結びつける媒体、を心の深くに焼き付けるような「祈り」に重なる、ということではないか。

『神々の村』を早く読みたい。

苦海浄土〈第2部〉神々の村

苦海浄土〈第2部〉神々の村