この違いは何?

今朝は快晴、手袋は必要なかった。定番のコースの折り返し点をずっと先に延ばして、久しぶりの道を辿った。カメラを持つことによってかなり鍛えられた眼は、新しい場所へ行くと、初めて見る沢山のものに新鮮な喜びを感じているようだった。冬が近づき、松以外のほとんどの木々は葉を落とし、幹と枝だけの凛とした姿を見せている。青空を背景とした裸の木を見るのが好きだ。

熟した実だけが残る木々の姿にも惹かれる。

朽ちかけた枯葉の中にポツンと咲く花にも眼を惹かれる。

今日も出会ってしまった第五の「1センチくらいの球形の白い実をつける低木」。

人工物と植物とのからみ合いに眼が留る。


全容は冴えなくても、醜いものや景観が多くても、細部が美しく見えることが増えた。これは自分が今いる場所を少しでも気持ちよく過ごすコツかもしれない。これは失敗だが、Framing Art、Zooming Artという言葉が浮かんだ。すでにありそう。

今朝の極めつけは、いつも気にかかっていた立て札。

「犬のふんでみんなが迷惑しています/飼い主が必ず処理しましょう/札幌市」とある。さらに漫画的に描かれた犬が咬んで下げた札には「愛情をもって犬は正しく飼いましょう」とある。このような「糞害」をなくするという目的を達成するには極めて実効性に乏しいと思われる立て札が、町内のあちらこちら、公園内にもたくさん設置されている。設置する側も、それで効果が上がるとは微塵も思っていない節がある。私が知るかぎり、心ない「糞害」常習犯は一向に減らないため、私のような心ある飼い主まで白い目で見られることがある。

この立て札を目にする度に、私はアメリカで感心した同様の立て札(Notice)を思い出す。帰宅してSmartCalendar-Xで2004年の写真を受動検索した。わずか1分もかからずに、見つけた。

「2004:08:26 14:57」という撮影年月日時刻がファイル名になっている。いろいろと想起する。

それはさておき、この立て札には、「ペットの糞/伝染病/放し飼いにせず後始末せよ/これは法律!/25ドルから200ドルの罰金」と痛快に書かれ、リードを手放さない飼い主が犬の排泄物を処理する姿が簡潔に見事に描かれている。しかもその下の漫画的な犬の絵の横には「ここの袋を取り出して使って下のゴミ捨てに入れて」とある。見てお分かりのように無料の袋が用意され、専用のゴミ箱まで設置されている。もちろん、これが全米の標準ではないだろう。しかし、やるからにはこの程度はやらなければ、やらないほうが税金の無駄遣いを減らすという意味でまだましと言われても仕方ないと私は思う。