脱エスタブリッシュメントへ旅立ったのだから

姿の見えない有象無象の読者との間の「接点」を真摯に、気の遠くなるような過程を厭わず模索しながら、私のような唯我独尊、暴走気味の記事とは異なり、レイヤーがぴしっと決まったエントリーを書き続けている『横浜逍遥亭』の中山さんは、その柔和で懐深い面影をときに快く裏切るように、言いたいことを歯に衣きせずストレートに書く。

「いじめについて思う」http://d.hatena.ne.jp/taknakayama/20061202#p1
「再度いじめについて」http://d.hatena.ne.jp/taknakayama/20061204#p1

リアル社会での「いじめ」を、ネット上、このブログ圏においても例外ではない事例へとリンクさせ、日本的な「いじめの構造」の診断と処方箋を導き出そうとする中山さんの姿勢に深く共感する。

中山さんの記事を読みながら、私は自分の中でのブログの位置づけについて改めて考え始めていた。

公開を前提にした体験の記録の一環。ネットの「あちら側」に自分の体験(思索も含めた)の記録を投じる。姿の見えない読者に読まれることを前提に、しかし、既存のメディアでは不可能だった、未熟な思索の萌芽状態のような拙い記録までをも公開する。未だに冷や汗ものの記事を性懲りもなく書き続けている。実験?何のために?

体験の記録が「死蔵」されないひとつの手段ということはある。私の日々の思いの一部が自動的に時系列で記録されていく。ネット環境さえあれば、いつでもどこでもそれらを検索することができる。追体験できる。しかし、それだけなら、わざわざ公開する必要はない。「他者の眼」を必要としているからこそ、公開する。たとえそれがどんなに「悪意」にみちていようとも、まったく反応がないことに較べれば、それは生きている証にも思えなくもない。ウィトゲンシュタインの(『論理哲学論考』における)「独我論」よりはましだ。

問題は「オープン」であることの負の側面をいかに生産的に捉え返し、意地でもそれを維持し続けるかということだと思う。「脱エスタブリッシュメントへの旅立ち」(梅田望夫)という言葉、メッセージを改めて噛みしめる。