第1回では「言語哲学入門」というこの講義の入口まで案内し、第2回では「言語哲学」の入口まで案内しました。そしてなぜウィトゲンシュタイン著『論理哲学論考』が「言語哲学」を学ぶための最良の教科書になりうるのかについて説明しました。一言で言えば、それが「本物の言語哲学」の優れた見本であるから、ということでしたが、まだピンとこない人がいるかもしれません。でも、心配しなくて大丈夫です。そこがピンとくるようになることがこの講義の最終目標でもあるからです。今回からいよいよ、その『論理哲学論考』の中身に入ることになります。楽しみですね。
今回はまず、復習を兼ねて、前回皆さんが書いた「思索記録」のなかから興味深い論点を含むものを二、三とりあげて、それらに応答することから講義に入る予定です。それから本番に移ります。すなわち、『論理哲学論考』という哲学書はいったい何を狙って何が書かれた本なのか、その「序文」に焦点を絞って、ウィトゲンシュタインの企画、プランの全体像をつかんでもらいます。それはなかなか凄い、ある意味では尋常ではない企画です。ところで、今後『論理哲学論考』を短く『論考』と呼ぶことにします。
序文は短いものですから、前もって一読しておくことを勧めます。二箇所だけ引用しておきます。
本書は思考に対して限界を引く。いや、むしろ、思考に対してではなく、思考されたことの表現に対してと言うべきだろう。というのも、思考に限界を引くにはわれわれはその限界の両側を思考できねばならない(それゆえ思考不可能なことを思考できるのでなければならない)からである。
したがって限界は言語においてのみ引かれうる。そして限界の向こう側は、ただナンセンスなのである。本書が全体としてもつ意義は、おおむね次のように要約されよう。およそ語られうることは明晰に語られうる。そして、論じえないことについては、ひとは沈黙せねばならない。
ちなみに、これらの箇所のオリジナルのドイツ語はさておき、英訳はこうなっています。参考までに。
Thus the aim of this book is to set a limit to thoughts, or rather ---not to thoughts, but to the expression of thoughts: for in order to be able to set a limit to thoughts, we should have to find both sides of the limit thinkable (i.e. we should have to be able to think what cannot be thought).
It will be therefore only be in language that the limit can be set, and what lies on the other side of the limit will simply be non-sense.The whole sense of the book might be summed up in the following words: what cen be said at all can be said clearly, and what we cannnot talk about we must pass over in silence.
最後の箇所は『論考』本文の最後の命題に呼応しています。すなわち、
7 語りえぬものについては、沈黙せねばならない。
短いので、ついでに、オリジナルのドイツ語と英訳を。
7 Wovon man nicht sprechen kann, darüber muß man schweigen.
7 What we can not speak about we pass over in silence.
「語りえぬもの」って何なんだ?と思ったことでしょう。でも、反対にそもそも「語りうるもの」の中身も気にかかりますよね。それに引用前半の箇所にみえる「思考」と「言語」の関係なんかも大いに気にかかることと思います。
今回はそのあたりの解説を中心に行いウィトゲンシュタインの哲学的プランの凄さに触れてもらいます。