(新雪の上の『グラヌール』と絵葉書)
昨日届いた『グラヌール』No.9(石塚出版局, 2007.12)に、昨年暮れの印象深い夕暮れの集い(12月22日、12月23日、12月24日、12月26日)を思い出させてくれる吉増剛造さんの文章が載っていた。私の恩師である工藤正廣さんとの15年ぶりの対話を文字に起こしたものだった。その場にいて聞いていたはずなのに、こんなことを語っていたのか、と驚くことがたくさんあって、そのなかには、現在私が直面している問題に深く交差する話題もあった。(その時は、私は両氏の15年前の対話を辿るので精一杯だったことを思い出す。)例えば、「テロリズム」をどう考えるかという問題である。復刊された工藤正廣さんの訳書『蒼ざめた馬』をめぐって、吉増さんが独自のテロリズム論のさわりを語っている。テロリズムに陥らないテロリストたれ、とでも要約できる興味深い考えである。思えば、この世で「詩人」として生きるということは、そのような意味でのテロリストたることを覚悟するということだろう。いわば孤立無援の立ち位置から、私たちの生きている場所を何度でも語り直し続けること。
わん、つー、すりー、言っちまえ! やっちまえ、そういう始源的なもの、なんかなきゃ……
(中略)
いち、にっ、さんっ(パン)。それは誰にだってありますよ。
(中略)
実際そこに起こったこと。
だからテロリズムとか政治的なことを言うけれども、われわれが生きている、生きてるっていうのは、そういう選択しないで向こう側からものを言わせれば、無限にそういうものに溢れている。やっぱりその時々に聞いているものを即座に忘れていっちゃうわけですよ。そういうものを生かす。そして自分で訓練してそれを生かすようなことを、それが、少しずつ私たちにも出来てきはじめたみたいな気がします。(9頁)
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『グラヌール』9号(glaneurs No.9)内容:
- 吉増剛造「ほっかい(え)どうの ねのくにへ〜」
- 多和田葉子「漢字考」
- 工藤正廣「春香より一葉」
- 中村達哉「木の葉が落ちる」
- 石塚純一「拾う人(8)」
- 石塚千恵子「附記」
- さとう絹恵「花 白露草」(表紙絵)
9号の言葉は襤褸(ぼろ)