爺のオリンピック

札幌、曇り時々小雨。Tシャツ一枚では肌寒い。


コスモス(秋桜, Cosmos, Cosmos bipinnatus

「花咲か爺」運動は爺にとってのオリンピックみたいなものである。オリンピックは他人事ではないし、オリンピックをたんなる四年に一度、一時の傍観者のまま終わらせるのは虚しい。だれもが人生のオリンピックを持つ。実際のオリンピックをもし観戦するとしたら自分のオリンピックに繋げて体験しなければ、マスコミの片棒を担ぐだけに終わるだろう。


風太郎を可愛がるFさんと(http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20080709/1215600373

今更言うのもおこがましいが、オリンピックの本質は国家の威信でもメダルの数でもない。あくまで個人や団体の体験の質にある。つまり、競技のなかで、かけがえのない世界が立ち上がることにこそある。いつまでも続けていたいが、必ず終わりが来る、という希望と宿命の狭間での濃密な体験。


アメリカフヨウ(亜米利加芙蓉、Hibiscus moscheutos)、別名クサフヨウ(草芙蓉)

寡黙なスポーツ選手たちはそのことについてはほとんどまったく語らないが、どんなスポーツも力強く訴えていることはそういうことだと思う。そしてそれはスポーツには限らない。傍観者でいる限り世界は近づこうとしても蜃気楼のように遠ざかって行く。相手は何でもいい。その相手とのやりとりを粘り強く続ける中で世界は自分の周りに立ち上がり、あなたをオーラのように包み込む。


サフラン公園の公衆便所にて

畳の上で、水の中で、トラックの上で、フィールドの上で、コートの中で、選手たちが知恵と体力を振り絞る姿に魅せられる。どんな競技も例外なく、一定のルールに従いながら、休むことのない相手とのやりとりの中で、世界を生成し続ける。世界の中に自分や競技があるのではなく、「今ここ」でかけがえのない世界が生まれ続ける。その世界感覚が大事なのだと思う。