ウィトゲンシュタインの季節

今年もまたウィトゲンシュタインの季節を迎えた。今年は320名(先週は260名だったが何があったのか60名も増えた。ちなみに、10名を超えたら、100名でも1000名でも変わりないという感覚がある。)の学生たちと『論理哲学論考』を「読む」。

論理哲学論考 (岩波文庫)

論理哲学論考 (岩波文庫)

ウィトゲンシュタインの哲学的プランは、思考の限界、すなわち思考可能性/思考不可能製の境界を画定することね。でも、思考不可能なことを思考することは不可能なわけですから、彼は思考が表現される言語において表現の限界、すなわち語り得ること/語り得ないことの境界を画定する作業に取りかかったんです。で、その語りの可能性/不可能性の境界をどこに見いだしたかというと、ちゃんと意味をなす/意味をなさない(ナンセンス)という境界でした。じゃあ、意味をなすかなさないかの境界は何によって決まるかというと、「論理」によって決まる、というのが彼の考えでした。でも、論理って言っても、単なる形式としてイメージされるものじゃなくて、意味を生み出すような深い形式というか、私たちが言葉を意味をなすように使えるようなる条件、前提としての論理です。

だから、論理哲学論考、なんですね。思考の可能性の限界を論理によって条件づけられる言語(語り)の可能性の限界によって画定しえた、と彼は確信したのね。これから、皆さんと一緒に、そんな哲学的プランの実践を「誤り」も含めて詳しく辿ることになるわけです。大げさな喩えだと思われかもしれないけど、エヴェレスト登山するみたいなことです。だんだん空気が薄くなるからそのつもりでね。でも、だんだん見晴らしがよくなるからね。人生の見晴らしだよ。私は頼りないかもしれないけど、現地案内役です。

そういうわけで、次回から本格的にエヴェレスト山に登頂開始します。何か質問はありませんか? 」

「はい。この講義を受けて、私たちはどう変わるのでしょうか?」(日本語が達者なアメリカからの留学生)

「それは、いい質問だね。でも答えるのは難しい(笑)。皆さんひとりひとりがこの講義から何を受け取るかにも依るからね。でも僕の狙いを言うなら、よりよく生きられるようになる、幸せに生きられるようになる、かな。というのも、結論から言うと、思考や言語の可能性について改めて考えるということ自体、生き方の可能性、希望って言ってもいいかな、を探ることでもあるわけなんです。だから、この講義では、よりよく生きる、幸せに生きるためには何をどう考えたらいいんだ、ということをウィトゲンシュタインの『論考』をガイドにして学ぶことなる。そう理解してください。」

「分かりました。ありがとうございます。」

「それじゃあ、来週は大学祭でお休みですから、再来週から本格的登山が始まるということで。いいですね。」