大分に思いを馳せ、酒屋で大分産の焼酎を探して買ってきた。その名も「閻魔」。これしか売っていなかった。閻魔か...。どういう巡り合わせか...。深く考えないようにしよう。閻魔を味わいながら、三浦梅園資料館に思いを馳せ、三浦梅園の『玄語』を読む。
学問ということ
一面において物事の道理に暗いのは、かならず他面において物事の道理に明るいからである。一面において物事の道理に目を塞がれているのは、かならず他面において物事の道理に通じているからである。一一(部分としてのありかた)は、そうなるほかはない。
そもそも、ひとが生きてゆけば、かならず習慣に染まる。習慣に染まれば、その生地を見失う。そのばあい、習慣のせいで物事の道理に暗いのは、学問によって治療できるが、学問のせいで物事の道理に暗いのは、おそらく治療法がない。
(『三浦梅園』(中公バックス日本の名著20)「玄語(抄)」例旨、299頁)
なるほど。酔いが醒める。
昨日触れた大分の三浦梅園研究所(http://www.coara.or.jp/~baika/index.html)の北林達也さんの研究成果の該当箇所を以下に二つ引用させていただく。
【玄語\例旨】85.txtの原文*1
15357: ○蔽必由明。塞必由通。一一之態。不得不然。
15358: 蓋人之為生。必染於所習。
15359: 染於所習。則失其所素。是以。
15360: 俗習之蔽。学為之※鍼。
15361: 学習之蔽。殆擲薬石。
*1:円記号は原文ではバックスラッシュであるが、表示方法が分からなかった。