三浦梅園とウィトゲンシュタイン

数年前から私の研究室の本棚の一隅に三浦梅園コーナー(二冊しかないが)がある。

だいぶ前に、金ちゃんが、大分の悠ちゃん(id:sap0220)を訪ねる際には三浦梅園資料館に行きたいと語っていたときにピンと来た。そして一週間前に、とうとうその理由が明かされた。そこには、二つのサプライズが秘められていた。

三浦梅園が日本の「スゲー奴」だったのはいいとして、今現在、大分には北林達也さんというスゲー奴がいる!という事実がひとつ。

北林さんはどんな人かというと、京都の山ちゃん(id:caesarkazuhito)と同業の鍼灸師玄珠堂)をやりながら、三浦梅園研究(三浦梅園研究所)を35年以上もやっている人で、三浦梅園の主著『玄語』に関して、こんなことをやり遂げた偉い人である。

  • 平成19年11月26日。「玄語」研究史上初めて、これまで読まれてきた「玄語」が三浦黄鶴の改竄版であることを発見し、訂正前の「玄語」の復元作業に取り掛かり、日々、格闘している。黄鶴の改竄は全編に及び、「玄語」はほとんど原型をとどめなくなっている。『梅園全集』および日本思想大系「三浦梅園」の「玄語」は、三浦梅園の「玄語」とは程遠いのである。
  • 平成20年7月17日。書き下ろし直後の『玄語』の復元作業が終了し、pdfファイルとして公開した。梅園没後、初めて梅園自筆の『玄語』が読めるようになった。全世界で、どのコンピュータ環境でも、読むことが出来る。

http://www.coara.or.jp/~baika/sakusya.html

魂消(たまげ)た!!!

ちなみに、北林さんのもとにはテラグローバル財団会長のバーナード・リエター(Bernard A. Lietaer, 1942–)が訪れたり、リエターの勧めで欧州科学アカデミー金融部門代表のシュテファン・ブルンフーバー(Stefan Brunnhuber)が訪れたりもしている。それがどのくらいすごいことなのかはよく分からないが。

もうひとつのサプライズは、そんな北林さんが三浦梅園の思想を解説するにあたって、ウィトゲンシュタインの前期思想に言及している点である。

私は『玄語』の哲学を解釈するにあたって、これまでのいかなる研究者とも異なった見解を持っている。それは、『玄語』を「事実の論理的映像(実在の論理絵)」として解釈するものである。これは今世紀最大の哲学者の一人とされるルートヴィッヒ・ヴィトゲンシュタイン(Ludwig Josef Johann Wittgenstein, 1889-1951)の初期の著作『論理哲学論考』(法政大学出版局、叢書ウニベルシタス6。他に中央公論社「世界の名著70」などに収録されている)の中に極めて明晰に述べられており、ヴィトゲンシュタインに関するいかなる解説書にも必ず取り上げられるものであって、決して難しい思想ではない。いま、その一部を引用する。数字は命題番号である。

事実の映像

2.1    われわれは事実の映像をこしらえる。
2.11   映像は論理的空間における情況を表現する。映像は、事態の成立・
       不成立を表現する。
2.12   映像は実在のひな型である。
2.13   映像の中では、映像の要素が、対象に対応している。
2.131  映像の中で、映像の要素は対象を代表している。
2.14   映像は、その要素が一定の仕方で互いに関係するところに、なりたつ。
2.141  映像は一つの事実である。
2.15   映像の要素が一定の仕方でたがいに関係することは、事物がそれと同
       じ仕方でたがいに関係していることを表す。 (つづく)

映像と実在を結ぶきずなとしての、描写の形式

       映像の要素のかような結合を、映像の構造と呼ぶことにし、その構造
       の可能性を、映像がもつ描写の形式と呼ぶことにする。
2.151  描写の形式とは、映像の要素がたがいに関係しあうのと同じ仕方で物
       がたがいに関係しあう、その可能性にほかならない。
2.1511 映像はこのようにして実在と結びついている。映像は実在にまで、到
       達する。
2.1512 映像は実在に当てられた物差しのようなものだ。

(2.15121〜2.174 省略)

論理的映像

2.18   正しいにせよ誤りにせよ、およそ実在を描写しうるには、いかなる
       類の映像でも、ともかくなにものかを実在と共有せねばならぬ。それ
       が論理的形式、すなわち実在の形式にほかならない。
2.181  描写の形式が論理的形式であれば、その映像は論理的映像と呼ばれる。
2.182  すべての映像は、同時に論理的映像でもある。(これに反し、どの映
       像も、例えば空間的な映像であるとは限らない。)
2.19   論理的な映像が世界を描写できる。
2.2    映像は描写の形式を被写体と共有する。
2.201  映像は事態の成立・不成立の可能性を表わすことによって、実在を描
       写する。
2.202  映像は、論理的空間における可能な情況を表わす。
2.203  映像は、それが表わす状況の可能性を含み持つ。
2.21   映像は実在と一致するか、しないかのいずれかである。映像は正しい
       か誤りか、真か偽かのいずれかである。
         (訳は、法政大学出版局叢書ウニベルシタス6を用いた。)

(中略)

(補足)ヴィトゲンシュタインは「事実の映像」(あるいは「実在の論理絵」)という思想を得ながら、自らそれを描くことをしなかった。それは彼が思索に用いた文字がアルファベットだったからであると推測される。梅園は、奇しくもヴィトゲンシュタインがこの着想を得たのと同じ29歳に、世界の論理モデルを描きうるという確信を得ている。梅園にそれが可能であったのは、思考に用いた文字が漢字だったからであると推測される。

http://www.coara.or.jp/~baika/gyoseki.html

ここに目を留めた金ちゃんは、私にこうトラックバックしてくれたのであった。

そもそも漢字をあんまし読まない私は、北林さんの主張の真偽が分からん。ヴィトゲンシュタインも出てきたことだし、また来年、札幌に行って、三ちゃんに教えてもらいましょ。

金ちゃんにとっては、ヘーゲルも、ウィトゲンシュタインも、北林さんの主張の真偽も、本当はどーでもいい、のは分かっているんだが、私としてはちょっと気になったことがあるので、書いておこう。

結論から言えば、三浦梅園の自然哲学的世界観とウィトゲンシュタインの論理的世界観は、同じように「世界」を相手にしているように見えても、出発点と切り口が全く異なるので、比較するのはかなり無理があると思う。どれくらい異なるかは、来年、札幌で、教えましょう(年内には講義関連のエントリーに書くことになるかも)。もちろん、だからといって、三浦梅園の世界観、世界の論理モデル、概念図の数々の意義が減じるわけでは全くなく、ウィトゲンシュタインの思想とは独立に、大変興味深いものだと思ってきた。だから、研究室には三浦梅園コーナーがある。私も三浦梅園資料館を訪れたいし、北林さんにもお会いしたいくらいである。

明日から(今晩すでに?)、大分では連日大きな花火が打ち上げられるのね。皆、楽しんでね。札幌から笑顔を送ります。