言葉の復讐

金ちゃんが年頭のエントリー「あけまして」で "Free" や "Liberty" の訳語として明治期に編み出された「自由」という言葉の由来と意味をめぐって、日本語論、翻訳論としても読める面白いことを書いていた。いつもそうだが、そこで明らかに語られていることもさることながら、そこで示されている、書くこと、言葉に対するスタンスこそが、ある意味では例えばハヤカーさんお得意の「毎日そんなに書くことも無い」にも通じるようなまさに「自由」な姿勢であるところが清々(すがすが)しく好ましい。私はと言えば、「自由」に関しては、金ちゃんのいう「御免」その他も腑に落ちるところは大いにあるが、いつも「奴隷」との対比で考えてきた。何か誰かの奴隷にならないこと。その意味では、書くことは積極的に言葉の奴隷になるようなものだから(書けば書けてしまう)、よほど自覚的に書かなければ、書いても、言葉に復讐される。蛇足ながら、「あけまして」としか書かないことは「おめでとうございます」と惰性でつながりたがる言葉、無自覚につなげる人に対する「自由=御免」つまりは毅然たるリアルな抵抗を示している。