家族、夫婦、親子

崩壊が叫ばれて久しい「幻想」を制度的なるものを超えてどう生きるかが問われているのだとずっと思ってきた。家族も夫婦も親子も放っといて「ある」もんじゃない。常に「なり」続ける関係だ。「親はなくとも子は育つ」と嘯く輩には、お前さん以外の誰かが親をつとめたんだよ、と釘を刺すべきだろう。

生きるということは常に新たな地平に進んで行くということなのだろう。

 「救いの無い奇妙な時間を過ごしていた」(「南無の日記」2009-01-16)

そして、今問題なのは、友達とか仲間という関係を既存の社会性を超えてどう生きるかということのように感じている。ブログを介して知り合った人々は友達であり仲間である。実際に会ったかどうかは二の次である。会えば関係が深まるという単純なものでもない。会わなくとも、その気にさえなれば、関係はいくらでも深まりうる。そして、いざとなれば、いつでも会いに行けるはずだ。