左:「朝日新聞」3月21日、右:同3月22日
暗澹たる気分になる。10人が亡くなった群馬の高齢者専用施設の火災は、専門家が指摘する急増する無届け施設の「ヤミ市場」的実態、国や行政の無策を露呈させただけでなく、また、改めて老後の不安を喚起させたにとどまらず、この国で生きることの根源的な絶望を痛切な叫びとして告げた事故であるような気がする。この惨事の背景を取材した新聞記事では「高齢者漂流」、「入所者の孤独」、「連絡拒む親族も」といった見出しが目に飛び込んできたが、「漂流」や「孤独」という表現にはとうていそぐわない過酷な状況が悪化の一途を辿っていると感じる。「棄民」、「遺棄」という言葉が浮ぶ。弱者を切り棄てるのは誰か? どこか? という単純な犯人探しと対症療法だけでは追いつかない事態に陥っているように思える。現在の私が将来の私を棄てることになることに気づけない「無自覚自滅症候群」?
刑法上の遺棄罪を思い出す。
老年、幼年、身体障害者又は疾病のために扶助を必要とする者を遺棄した者は、一年以下の懲役に処する(217条)。
現在進行中なのは国ぐるみの「遺棄罪」ではないかとさえ思えてくる。
左:遠い「山びこ」―無着成恭と教え子たちの四十年 (新潮文庫) 、右:「朝日新聞」3月23日
ところで、今日、”山びこ学校”こと山形県上山市の山元中学校の閉校が報じられた。新聞の小さな記事で知った。一昨日簡単に触れた佐野眞一『遠い「山びこ」』を読んでいなければ、見過ごしたかもしれないと、不思議な縁のようなタイミングにちょっと驚いた。そして、高度経済成長以来、その裏で急激に進行した過疎化は、現在の老人遺棄状況に繋がっていると感じる。
「朝日新聞」3月22日
そんななかで、都会育ちの若者たちが超過疎地にいわば「逆流」し、そこで見ず知らずの高齢者たちと新たな縁、絆を創出しようとする動きは、一条の光のように感じられた。