愛は裏切られ、孤独さえ砕かれ

毎年のことだが桜の季節になると生きると言うことの辛さをしみじみと感じるのだ。

 桜の季節になると(「南無の日記」)

富山では桜は五分咲きだそうで、桜前線は律儀に北上しているようだが、札幌の桜はまだ芽が出たばかりである。春の陽気、妖気に誘われて遠出した南無さんが、家族連れで賑わう広場で「孤独」を絵に描いたような人物に宿命のようにして出会ったときの様子を書いている。その人物を見て見ぬふりをしたり露骨に嫌な顔をする人たちを尻目に、南無さんはごく自然に近づき、言葉を掛ける。その飾らない自由さが素敵だ。そもそも南無さんのアンテナはそういう人を敏感に探知してしまうのだろう。どこかの「誤探知」とは大違いだ。そんな南無さんは「孤独」について一年前にこう記していた。

孤独さえ砕かれてしまうことだってある。そのあとに残るものはなにかという問いに私は答えることが出来ない。

 そのうちずっと遠いところへ行ってしまわなければならない−(錯乱 I)(「砕かれた街 南無玄之介の試論、メモ。」)

その後に残るものはなにか? 南無さんのさりげない気遣いや振舞いのなかにその答えは示されている。孤独さえ砕かれた後の瓦礫や破片の小さな鋭い角角が、愛や現実という名の大文字の幻想を切り裂いて、生きることの小文字の辛さにそっと寄り添い、永遠とも思われるかもしれない時間を寡黙に共にする。Mさんも書いているように。

自分の愛を裏切ってゆくのは自分自身でしかない。
(「坂のある非風景」)