小津安二郎と吉田喜重

前略。

今日は、『小津安二郎の映像世界』の続きを観て、小津安二郎の映画を「反映画」として物語る吉田喜重の映画観について、現実とフィクションの関係、そしてドキュメンタリーとフィクションの関係という観点から少し触れる予定です。以下の引用が、貴重な道標です。

処女作『ろくでなし』(60)から最近作の『鏡の女たち』(03)へといたる
43年間もの歳月を通じて、吉田喜重は、ひたすら無時間性に徹することで、
そのつど鮮やかに歴史を露呈させてみせる。
真の変化に立ち会うために、あえて変化を排すること。
あるいは、変化にたやすく同調せずにおくことで、真の変化を導き寄せること。
映画だけに許されたこのフィクションを、
吉田喜重は、いま生の倫理として、音もなくスクリーンに炸裂させる。
−−−−−−−−蓮實重彦

「吉田喜重 変貌の倫理 2006」より

わたし自身には劇映画と記録映画とを、
別けへだてしようとする気持ちはあまりない。
カメラのレンズをとおして被写体を見るかぎり、
すべては否応なくフィクション化してしまうように思える。
レンズの向こうとこちら、この隔たりは限りないものがあり、
それを越えてなにかを表現しようとするとき、
わたし自身すでに「物語」の領域にいることに気づく。
現実はたしかに眼の前にありながら、
それは一瞬、一瞬と移りゆく脈略のない、
無秩序な配列にすぎない。
それに筋道を立て、なにかを表現しようとすれば、
おのずから物語らざるをえない。
人生という物語、戦争という物語、死という物語、歴史という物語
――そのかぎりでは、フィクションとドキュメントのあいだに、別けへだてはない。
吉田喜重「「物語」としての記録映画」)

「吉田喜重 変貌の倫理 2006」より