それだけのことが嬉しい

思いがけない場所で彼女に会った。左手の空き地の雑草に気を取られていた私は、「こんにちは」という聞き覚えのある声のする右手に顔を向けた。すると、花壇の低い塀にちょこんと座って笑顔で私を見上げる彼女がいた。終わりかけたオダマキの紫色の花に囲まれていた。「彼女」という日本語は若い女性を連想させるかもしれないが、彼女はめんこいねえのおばあさん(→ Mrs. Menkoine)のことである。彼女は『町内物語』のヒロインの一人である。これから、そして、いつまで『町内物語』が続くかは分からないが、彼女抜きに、私の町内生活を語ることはできない。それが思いがけなかったのは、彼女がそこまで来るはずがないと思い込んでいたからだった。もっと手前で折り返して帰宅するのがそれまでの彼女の散歩コースだった。「こんなところまで、珍しいですね」「距離を延ばしたの」と彼女は嬉しそうに言った。「そうですか。それはよかった」彼女の体調を少し心配していた私も嬉しかった。「一人で寂しくないかい? また飼いなさい」彼女は決して押し付けがましくなくそう言って、立ち上がった。彼女の口から「また飼いなさい」という言葉が出なくなることが私のひとつの宿題だなと感じた。