E未亡人との会話

いつものように、サフラン公園入口のシナノキの下をくぐって、東屋で一休みしようと思っていたら、なつかしい先客がいた。ただ者ではないと常々感じていたE夫人だ。町内をかなりのスピードで駆け巡り、サフラン公園の東屋で一休みするのが彼女の日課だった。贅肉のまったくない引き締まった体をぴたっとしたスパッツとランニングシャツに包み、小振りのスポーティーなキャップを被り、衝撃吸収能力の高そうなナイキのシューズをはいている。日に焼け引き締まった顔からは汗が滴り落ちている。私が声を掛けるまでこちらには気づかないほど、クールダウンをかねた私には結構激しく見える骨盤体操に没頭している。彼女とは風太郎と散歩している時代からの顔見知りだが、軽い挨拶を交わした程度だった。久しぶりに会った彼女は風太郎がいないことに驚いた様子で、骨盤体操を中断して、フェイスタオルで顔の汗をふきふき、私の話相手になってくれた。色んなことを話した。彼女がそんなにフィジカルトレーニングに励んでいる理由も分かった。数年前に夫に先立たれ、二匹の老いた猫(「おばあちゃんたち」と彼女は呼ぶ)と暮らす彼女は、冬のスキーが何よりの楽しみで、雪の無い間は筋力が衰えないように訓練しているのだった。スキーについて語る彼女は本当に幸せそうな表情になった。かなり本格的にアルペンスキーをやるようだ。「素晴らしいなあ、前向きですね」「そうかしら」彼女が藻岩山スキー場のコブだらけの最も急な斜面、地元では「兎平(うさぎだいら)」という名前で怖れられているコースをコブをもろともせずに直滑降して下りてくる勇敢な姿が目に浮かんだ。



 ミカミマサオにもこんな頃があった。昭和30年代後半。


「スキーはやらないんですか?」と訊かれた。「ええ、子供のころは夢中でしたが、、」と予期せぬ質問に、スキー好きだった父のスパルタ教育を受けたときのシーンが蘇った。まだ幼稚園児のころだった。緩斜面でバランス良く真っすぐには滑れるようになった私(写真)を父はいきなり急斜面のコースの上に連れて行った。「後に付いて来い」という言葉だけ残して父は先にすいすい滑り下りて行ってしまった。「マジ? こんなところをどうやって滑ったらいいの!?」そんな感じの心境になったはずの幼い、まだ可愛かった私は、斜面を斜めにちょっと滑っては転び、尻をついたまま方向転換し、またちょっと滑っては転び、、、を繰り返して、要するにジグザクを描いて、雪まみれ、鼻水だらだら、泣きながら、なんとか下まで滑り降りた、というかほとんど転がり降りたのだった。幼心に父の無謀さに憤りを覚え、しばらくは父を恨んだ。スキーが嫌いになった。しかし、そんな思いをしたにもかかわらず、そのときの体験が功を奏したのか、私はめきめきとスキーに上達し、小学校時代、そして中学2年までは、かなり本格的にスキーに取り組み、競技会なんかにも出場したのだった。そうだった。しかし、中学3年になるとき、故あって、両親と離れて暮らすようになってから、ぱったりとスキーをしなくなって、今日に至っている。大人になってからは、自分の子らにせがまれて一シーズンに数回行く程度だった。

E未亡人と話しながら、それにしても女は強いなあと感心した。カミさんの話では、夫に先立たれた後、人生を謳歌している元気な女たちが少なくないという。夫とは人生を謳歌できなかったのか、、。それはないだろう、と思いつつも、分かるような気がした自分をちょっと反省した。