「ドルーワルサマトモジフ」。右から読んで下さい。「フジモトマサルワールド」。残念ながら、回文ではありませんが、言葉というものは暗黙のルールからちょっと外れるとチンプンカンプン、トンチンカンになるんですね。ということは、逆に考えると、言葉の秩序はなんとフラジャイルな(壊れやすい)のか、ということでもありますから、大切に持ち運ばないといけないのかもしれません。
最近、新聞連載小説『聖なる怠け者の冒険』(森見登美彦作/フジモトマサル画)で知って気に入ったフジモトマサルさんの漫画本、絵本を寝る前に読んでいます。今までのところ六冊読みましたが、新聞連載小説のイラストで受けたまるでキリコのような不思議な印象の理由が少し分かったような気がしました。
これは「眺めのいい部屋」ではありません。「長めのいい部屋」です。が、ぼくらはついつい「眺めのいい部屋」と読んでしまう習慣があります。文法的規則からは外れていないものの、「〜のいい部屋」の前に「眺め」じゃなくて「長め」が来るなんてほとんど予想しないので、その意外な結びつきにハッとし、言葉の秩序の奥深さというか厚みの一端に触れた気にもなるんだと思います。
この『長めのいい部屋』のカバー裏にはこんなコピーが印刷されています。
シロクマとヒツジとヒトが
同じ空気で暮らす街。
住人たちに耳を澄ませば
よく知る誰かの声が聞こえる。
子供の正直さと
大人のユーモアが出会った
極上のくつろぎ絵本
……
『長めのいい部屋』だけでなく、フジモトマサルさんの絵本というか漫画では、例外なく、各種の動物たちがヒトと同じ空気で暮らしています。驚くべき一貫した吹けば飛ぶようなフラジャイルな世界観が示唆されています。そしてそれが「くつろぎ」に通じるのは、そう単純な話ではないと思います。つまり、ユーモアを失った大人たちが作るギスギスした世の中で子供たちもひねくれて育つ現実が目の前にあるからこその「くつろぎ」なのではないでしょうか。このような軽い、浅いと見なされるかもしれない遊びのような表現は、現状認識と現状批判にとどまることなく、その先、つまり、実際に今そしてこれから何をどうしたらいいかという処方箋を書いているのだと感じます。