老犬

Chet Baker: "The Old Dog"


「闇の底からわきあがってくるその声は、うたがいもなく腐りきった肉体の芯をみなもととし、ただれた臓器をふるわせ、無為の心と重奏してうねり、錆びた血管をへめぐり、安物の入れ歯のすき間をぬけて、よろよろと私の耳にたっした。ここに疲れや苦汁があっても、感傷はない。更正の意欲も生きなおす気もない。だからたとえようもなく切なく、深いのである。そのようにうたい、吹くようになるまで、チェットは五十数年を要し、そのように聴けるようになるまで、私は私でほぼ六十年の徒労を必要としたということだ。ただそれだけのことである。教訓などない。学ぶべき点がもしあるとしたら、徹底した落伍者の眼の色と声質は、たいがいはほとんど堪えがたいほど下卑(げび)ているけれど、しかし、成功者や更生者たちのそれにくらべて、はるかに深い奥行きがあり、ときに神性さえおびるということなのだ。(中略)あぶない病気になり病室でよこたわっているしかなかったとき、こころにもっとも深くしみたのは、好きなセロニアス・モンクやマイルスではなく、好きではなかったチェットの歌とトランペットであった。最期にはこれがあるよ、と思わせてくれたのだ。猛毒入りの塗布剤のような、はてしなく堕ちていく者の音楽が、痛みをなおすのでもいやすのでもなく、苦痛の所在そのものをひたすら忘れさせてくれた。くりかえすが、彼の音楽に後悔や感傷は、あるように見せかけているだけで、じつはない。<人生に重要なことなどなにもありはしない。はじめから終わりまでただ漂うだけ……>というかすかな示唆以外には、教えてくれるものもとくにありはしない。生きるということの本質的な無為、無目的を、呆けたような声でなぞるチェットには、ただ致死性の、語りえない哀しみがある」(辺見庸『美と破局』18頁〜23頁)

美と破局 (辺見庸コレクション 3)

美と破局 (辺見庸コレクション 3)


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