転校生のリアリティ

遠野物語 (光文社文庫)

遠野物語 (光文社文庫)


森山大道は転校生だったという。私も転校生だった。分かるような気がする。彼の写真の独特の距離感というか屈折感、傾き、速度感というか疾走感が。

度重なる転校は彼から故郷Homeと呼べる土地Landを奪った。積極的に友だちを作ることも諦めさせた。いつも今いる場所がすぐにまた次の場所へと移動する通過点でしかない。いつもここではないどこかに向かう心が今ここから足を浮かせる。不安、不安定。別の土地への移動は更に別の土地への移動の通過点でしかなかった。

そんな少年が知らず知らずのうちに魅入られていくのが、つかのま暮らす町の中の特異な場所Spotだった。商店のウィンドーや看板やポスターや映画のスチール写真やスクリーンや挿絵など、コピーされた人間や物が「平面」の向こう側に永遠に安んじて住むように見える世界、すなわち「もうひとつの国」への深い愛着が生まれ育った。まるで「鏡の国」だ。

そんな「もうひとつの国」への誘惑が写真の動機に繋がる。しかし、生きている限り私は「もうひとつの国」に住むことはできない。居心地の悪い不安的な「こちら側」に身を置くしかない。鬱病にもなる。そんな「僕」にとってカメラと写真は二つの国を結ぶ銀河鉄道のような役目を果たす。

「僕」にとって遠野物語の「遠野」は理想の故郷のイメージとしてあった。だが現実の遠野が近づくにつれ、理想の鏡にはヒビが入り、結局は現実の前に粉々に砕け散る。写真はその破砕の証であり、言語も想像も超えた現実の断片である。だから、そのような断片から写真集として再構成された「遠野物語」のイメージは体験のまとまった記録ではなく、遠野でさえ体験できなかったありえない故郷の記憶、その引き金である。不可能な故郷の記憶。平面の向こう側に、記憶のなかに作られるしかない故郷。

しかし最近の私はそこに微かな違和感を覚える。