ナルほど


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印欧語が存在と所有を表す動詞を根幹とする言語だとすれば、日本語は存在と生成、とりわけ生成を表す動詞を根幹とする言語であるらしい。たしかに、「ナル」を使わなければ、まともに日本語で話したり書いたりすることはできなく「なる」。ほら、もうすでに、そうでしょう? お試しあれ。個人的には特に、「なるようにしかならん」とか、「なるほど」が使えないとすれば、最近の心境はうまく表せない。困る。日本語の考古学とも言うべき、木村紀子『原始日本語のおもかげ』を読みながら、自分がもっとも頻繁に、しかも無意識に使っている言葉ほど、その言語の根っこに近いのだということを改めて認識させられた。頁を捲るたびに目からウロコが落ちた。特に、「ナル」に関しては、その日本語の最古層へと探針を降ろした木村氏の慧眼は、狭義の言語意味論を越えて、文学論、さらには文化論にまで及んでいる。

 つまりは、この世のあらゆる現象の、その転々するままを表現する動詞が「ナル」である。この世の現象は、「逝く川の流れ」のように、一時も止まらず「ナリ行く」ものであるが、その一時の形象を捉えていうと「ナリが大きい」「身ナリがよくない」「鈴ナリになる」「狭いナリにも楽しいわが家」などという「ナリ」という名詞に’なる’。「ナルほど・ナルたけ・ナルべく」などの可能性を限定する副詞とも’なっ’て展開している。ナルは、日本語を話したり書いたりすれば、半ば無意識のうちに頻繁に使っている、日本語の根幹を為す動詞の一つである。それゆえまた、「ナッたことは仕方がない」とばかりに、「ナリ行き」に任せて責任をぼやかし、諦めの早い国民性のもとに’なっ’ているとも思われる。(64頁)

(中略)

 あるいはまた、江戸期の松尾芭蕉は、俳諧作法について、

また、句作りに師(芭蕉)の詞有り。「物のみへ(見)たる光、いまだ心にきへ(消)ざる中にいひとむべし。……句作りに、成るとすると有り。内をつねに勤めてものに応ずれば、その心の色句と成る。内を常に勤めざるものは、ならざる故に私意にかけてする也。」(三冊子<赤双紙>)

などと、ナル(生成)とスル(当為)という日本語動詞の二面性を使って説いた箇所がある。「おのずとナル」句の方が、「みずからスル」句よりも上位であるとの説である。「造化(天地自然)」にしたがひ造化にかへれとなり」(笈の小文、前文)とも通ずる信念だろう。人の意図的な作為(スルこと)など、千変万化する(ナリゆく)造化の営みに比べれば何ほどの物でもないと断言している。
 ことほどさように、古来「ナル」に対する否定的な文言は、あまり見出すことができない。もとより「ナル」とは、抗えず否定できないこの世の万象の現実である。死ねば、無に帰一するというよりも、「風にナッて」宇宙に遍満するという方が、多くの日本人には心安らぐ感覚だろう。何しろ、ふと気がつけば、柿の実がナッているように、ヒトもまたナル前のことは不明なまま、この世にナリ、この世でナリ続け、春には柿の実が無くナッているように、時が来れば、この世から無くナルものだからである。(73頁〜74頁)

ナルほど。