朝日新聞(朝刊)2010年8月24日
この記事は警視庁蒲田署への取材にもとづいて書かれたとある。その取材によって、死んだ母親の老齢福祉年金を不正に受給した詐欺容疑で警察から事情聴取を受けている男は、なぜか数冊のはがき大の日記帳を任意提出していたことが明らかにされたという。その「日記」がいわばクローズアップされた記事の内容である。ところがその内容が「日記」をめぐって非常に曖昧な書かれ方をしている点にひっかかった。明言されていないが、記者はその日記を実際に目にして中身を読むことができたとは思われない。したがって記事は取材に応じた署員との談話に基づいて書かれたと考えてよいであろう。しかしそこはぼかされたまま、署員が調査して判明した事実、容疑者の男が話したとされる言葉、日記の記述そのもの、の三つのレベルの言葉が不用意に羅列されている。そして結局、その肝心の日記の記述が容疑に関して何を証言しうるのかについては何の言及もないまま、ただ日記の記述とされる言葉を引用して情に訴えかけるような終わり方をしている。記者の問題意識はどこにあるのか? と思わざるをえない。そもそも母親の死亡を確認した時にどこにも誰にも知らせずに、しかも押し入れに入れたままの遺体が腐乱し白骨化してもなお、日記に記すしかなかった男が置かれていた尋常ではない状況がある。そんな状況に追い込まれた複雑な経緯にこそ、犯罪の立件以上に、深く大きな社会問題として立ち入るべき諸点があるはずである。そして日記をクローズアップするならば、それらに関して日記に書かれた言葉がどれだけのいわば証言力をもちうるのかについての言及がなされるべきである。