空白の重み

昨日の朝は小雨模様だったので、透明傘をさして散歩に出た。帰り道の途中にあるサフラン公園の東屋でひと休みしていると、礼文島出身の中野さん(女性)がやってきた。先日話した利尻島出身の中野さん(男性)とは直接の縁はない。二人は知り合いだが、それほど親しくはないようだ。それでも、私が利尻島出身の中野さんを話題にすると、礼文島出身の中野さんは「ああ、おとうさんのことかい?」と言う。夫婦でもないのに妙な感じだが、いい感じでもある。混乱を避けるために、礼文島出身の中野さんを「中野のおばさん」、利尻島出身の中野さんを「中野のおじさん」と勝手に呼ぶことにする。中野のおばさんは風太郎と散歩していた時代からの顔なじみで、風太郎亡き後、会うたびに、もう犬は飼わないのかい? 犬がいないと寂しいねえ、と言ってくれる人である。昨日の朝も、隣に座るなり、一人で寂しいねえ、と言ってくれた。私は素直にはいと返事する。私はいつもの悪い癖で中野さんに会うたびに故郷、礼文島のことをあれこれと尋ねてきたのだが、中野さんがあまり話したがらないので、最近はその話題には触れないようにしている。だから昨日の朝は他愛のないことをおしゃべりした。それに中野のおばさんは写真に撮られることを心底嫌がるので、写真も撮らないことにしている。そのうちなんとか本人をそそのかして撮ってやろうと思ってはいるのだが。そんな中野のおばさんは、私が故郷のことも尋ねないし、写真も撮ろうとしないことに安心したのか、今朝は特に今まで見せなかった笑顔を見せるようになった。その笑顔をいつか撮りたい。人には触れられたくない過去、他人にとってはその人に関する記憶の空白がある。それを無理して埋めようとする無神経さ、野暮は避けるべきなのだろう。いつか姜信子さんが言っていたように、人は理解などではなく、空白によってこそ繋がるということがある。