先日、レーモン・ルーセル『アフリカの印象』のなかの木霊をめぐる詩的な挿話に触れた際、『アフリカの印象』全体から「恐ろしいほど静かな印象」を受けたと記したが、その理由はよく分からなかった。今日、それは「風が吹いていない」からだということに気づいた。
日が傾いたにもかかわらず、赤道近いアフリカのこの地方では、暑さは相変わらず耐え難く、私たちはみな、そよとも風の吹かぬ、一雨来そうな重苦しい天候を感じていた。
そしてそもそもなぜ花の香りを伴う木霊をめぐる詩的な挿話に強く惹かれたのか、その理由もよく分からなかったが、その場面だけは「風」が吹いていたからだということに気づいた。その場面では、花の名前を叫ぶ人間の声が、空気を激しく震わせる「風」となって『アフリカの印象』の数頁にわたって吹いていたのである。
そう気づいたのは、マリー・シェーファー『世界の調律』を久しぶりに読み直しているときだった。
自然界を構成する諸要素の中でも、ひときわ耳を強くとらえるのが風である。それは、聴覚的であると同時に触覚的でもある。
自然界を含めた世界は風の声、あるいは風の歌とでも呼ぶべき音に満ちあふれている。かつて本書からは、視覚重視のランドスケープの観念を補完するために、音楽を超えた、あるいは音楽の根源に広がる音の風景、サウンドスケープの発見、それを微細に感受するための聴覚の訓練を通しての世界のチューニング、調律の大切さについて学んだのだった。音楽の根源への探求という側面をもつ本書では、多種多様な音声からなる世界を聴き取り調律するために必要とされる力、音を澄ます聴力としての「透聴力」と訳された 'clairaudience' とそのような聴力を鍛えるためのいわば「耳の掃除」が重要視されてもいたのだった。
人間の言葉の世界に限ってみても、意味や論理(議論)の整理とは別に、言葉の音世界、サウンドスケープの調律が必要だと思えるときがある。