フレンチローストの珈琲豆


夕食後に濃いのを一杯飲もうと思って、フレンチローストの珈琲豆を挽こうとしたときだった。単なる老いのせいなのか、目眩がしたわけでも、地震があったわけでもないのに、開封したばかりの豆の入った袋が手から滑り落ち、わずかに油が浮いて黒光りした数百個の豆が、ボウリングでストライクをとったときに弾けるピンが発する和音を繊細にしたような和音の大音響とともに台所の木の床一面に勢いよく飛び散った。快感ともいえる連続的な小さな衝撃が脳天から足裏に高速で走り抜けた。茫然としてしばらく立ち竦んでいた。袋の底に残っていたのは250グラムの内の五分の四ぐらいだった。我にかえって、誰にともなく「やれやれ」と声に出し、ほぼ楕円状に散らばった豆を長径の一方の境界あたりから、一個一個丁寧に拾い上げて、埃がついていないこと(少なくとも目には見えないこと)を確認してから別の袋に戻す作業に、三十分ぐらいかかっただろうか。その間に、とても清々(スガスガ)しい気持ちになったことにちょっと驚いていた。まてよ、もしかしたら、俺は心の準備もないままに、突然、季節外れの豆まきをしたのかもしれないな。数百の黒光りするいかにも邪悪な子<鬼>たちを外へ撒いたんじゃないか。あの快感を伴った衝撃は、この汚れた心から幾分でも邪気が放出された証なのではないか。悪くない。そう思うことにしよう。たとえ埃がついていたとしても、それを<福>として甘んじて受け入れよう。拾った豆を捨てるつもりは微塵もなかった、と言えば嘘になるが、私は目に見えない埃がついているかもしれない豆を挽いて、布でドリップした。落としたての熱い珈琲は美味かった。私の鈍い舌では、埃は味分けられなかった。



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「やれやれ」とまた声に出して、読みかけの本を開いた。そこには「感覚のスクリーン」を拡げて、「誰のものでもない光」を当てるという、私にとっては非常に身近に感じられる実験についての丁寧な解説が記されていた。