時間のレンズ


自然観察者の手記―昆虫とともに五十年 (1975年)


時間というレンズを通して見ているのだから、わざわざカメラのレンズを通して写真なんか撮るまでもないと思うことがある。優れた「自然観察者」はまるで澄明な空気のような時間のレンズを通して撮影したかのような澄み切った文章を書くものだ。

 幾たびか野わきと時雨が走りぬけ、そのあいまあいまには、強烈な日光が澄明な空気を通してふりそそぐ。すると南斜面の山麓の雑木林では、あるいはすっかり今年の葉を振るい落とし、あるいは枯葉をことごとく身につけて、とにかく静かな冬が来たことになる。
 そこにたたずむ私の目には、木灰のように乾いた灰色と、雉の羽毛のように暖かな褐色だけがはいる。その中を歩くと、カサカサ高い音がして、いま天地に自分だけ生き残ったという感じをおこす。とたんに、数歩先の乾いた叢林から小鳥の声が飛び立ってゆき、ノウサギが走りさる。強い初冬の日を浴びて、ムラサキシキブの紫果が美しく輝き、ツルウメモドキの果皮がはじけて赤い種子が出ているが、そこにはバッタもコオロギもトンボもチョウもいない。彼らはすべて死に絶えたのである。ミカン畑の中のビワの花にだけは、ハナアブの静かな翅音がきこえる。やっと虫の生存者を見つけだしたのである。木とササの根のおおいかぶさった崖の日溜りには、さらに多くの生存者が集まっている。崖の表面で日光を吸収しては、小さい坑を探して出入りするトガリアナバチ、活発に大きな運動をするクロバエ、きわめてつつましやかに飛ぶヒラタアブとハナアブ、おそらく長途の旅の末、やっとたどりついた越冬場所で、あたかも聖地にはいった巡礼のように、休息するテントウムシやウリバエなど。
 しかしそこには、夏の日盛りから秋の末まで出没したカナヘビもトカゲも見当たらない。すでに正月が近づいている。すべての草木と多くの大木は同化作用を停止するかもしくは弱めている。さまざまな豆科植物の乾燥した硬い莢はすでによじれて、中の種子をはじき飛ばしてしまっている。カエルもトカゲもヘビも越冬場所にはいったし、直翅類もトンボ類も死に絶えた。いまこの寒気の中で活動するものは、鳥類と哺乳類であり、双翅と膜翅類である。


  岩田久二雄『自然観察者の手記』(朝日出版社、1975年)3頁