ニコラ・ブーヴィエが撮った昭和の日本


Nicolas Bouvier, Wall, 1956, Tokyo, Japan*1


Nicolas Bouvier, Femmes Aïnou, Hokkaïdo, Japon, 1964*2


Nicolas Bouvier, Wakkanaï, port et chantier naval, août 1965*3


宮本常一(1907–1981)が日本列島の津々浦々を歩く傍ら本格的に写真を撮り始めた昭和30年(1955)に、ニコラ・ブーヴィエ(1929–1998)は日本に上陸した。翌1956年、食うために彼は「写真家」になった。宮本常一、あるは渋沢敬三がニコラ・ブーヴィエと出会っていたら、面白かったのに、と思う。

1953年6月、24歳のとき、ニコラ・ブーヴィエはジュネーブから陸路、「東」への旅に出発した。旅の途上、セイロンで心身ともに衰弱するも、二年後の1955年10月29日に横浜に到着した。旅の行程は末尾に引用した「ニコラ・ブーヴィエ年譜」に詳しい。

東京駅に出て、荷物を預け、さて、これからどうする、という時の彼の全財産はポケットの12ドルのみだった。ホテルや旅館に泊まるつもりははなからなかった。不動産屋が仲介する物件は高すぎて諦めた。適当な部屋を探して、彼は初日からあてどなく20キロ以上歩いた。七日間東京を駆けずり回ったが成果がなかった。そして八日目に「バー・ポエム」の主人がけっこういい部屋を見つけてくれた。こうしてブーヴィエは一年にわたってアラキチョウ(荒木町)の夜警の家に住みつくことになる。

 向日葵、竹、藤、老朽化して傾いた家並み。おがくず、緑茶、鱈の匂い。夜明けには、鶏の引きつった鳴き声があちこちから聞こえてくる。世界でもっとも美しい文字で書かれた醜い広告がいたるところに張りめぐらされている。
 荒木町、そこはひと口にいうと都市の一角に忘れ去られた村の名残であり、……(「荒木町界隈」、『ブーヴィエの世界』84頁)


ブーヴィエによれば、当時荒木町では、どんな貧しい家庭でも、いちばんめだつところに写真機、カメラがぶら下がっていたという。ブームだったのだ。しかし当時のカメラは至近距離から撮ってもネガに小さな人影が写るだけの代物だった。まともなカメラを持っているのはブーヴィエ一人だった。そこで、よく頼りにされた。そして必ず卵や蟹や梨などの返礼があったという。

写真という便利な小間使いのおかげで、荒木町の門戸は開かれはじめた。(97頁)


写真のほかにも、もちろん、色んな配慮や工夫をしながら、彼は荒木町で暮らす人々の心の中にすこしずつ着実に深く入っていった。彼は、日本の新聞や雑誌に記事を書くことでなんとか糊口をしのいでいた。しかし、そのうちそれだけではまともに食うこともできなくなった。一週間何も食えない時もあった。そんな窮地のなかで本格的な「写真家」になる日が訪れた。彼を救ったのは、なんと「壁」だった。

 物事が悪いほうへ向かっているときには、人に過大な期待を寄せるより、事物との関係を研ぎすませたほうがいい。私を窮地から救いだしてくれたのは、ただの壁だった。麻布界隈を走る都電七号線に沿って、私は数日前から自分宛の郵便物を求めて延々と徒歩で大使館通いを続けていた。途中、ひと休みしようと蓋の閉まったごみ箱の上に腰掛け、ふと目を上げると、そこに壁があった。それは夏の黴と表面に吹き出している硝酸塩が劇場の垂れ幕のように波紋を描いているコンクリートの壁だった。この「舞台装置」に沿った歩道はおあつらえむきにステージのように一段高くなっているので、通りがかりの人々はいやおうなく「劇中人物」と化し、テレビ画面のゴーストのように二重映しになって、芝居か夢のなかの場面のように見えてくるのだった。

 疲れているんだ……、私はそう思い、しばし目を閉じた。ふたたび目をあけても、まだそれは続いていた。それは知らない言葉で語られた物語に登場する人物のようで、その数はますます増えているように思えた。私は間近に寄って壁を見つめた。表面にはビロード地のような、窯の中から出てきた古い壺のような光沢があった。型枠の穴といくつかの不明瞭な落書きに交じって、子供の手でくっきりとバカと書かれてあった。私のことを言っているように思えた。百回はこの前を通ったはずなのに、何も気づかなかった。だが、そのときはその必要がなかったのだ。壁の真向かいには、ちょうど線路と道の間に、廃品や木箱を積み上げたごみ捨て場があり、気づかれずに観察するには絶好の場所になっていた。私は、四キロの道のりを大急ぎでアパートに帰った。残っていた本をすべて新宿の古本屋に売り飛ばし、フィルムを買った。半額で店頭に出ていたやつをひと山買いこんだ。「海水に浸かってしまったものだけど」と店の主人は行った。まあ、なんとかなるだろう。

 こうして四日間、私は壁の劇場の前にダニにようにへばりついて暮らした。木箱の上に陣取り、カメラを腹に据え、こちらに気づかずに通り過ぎていくこの界隈の人々を見つめていた。上手からであれ、下手からであれ、視野をさえぎるものは何もない。接近してくる人々を観察し、その速度や道筋を見きわめ、身じろぎしないで、私のスクリーンの前ですれちがい、挨拶を交わし、ひょっとしたら罵り合いでも始まらないかと期待した。だが、日本人は人前で罵りあったりしない。

 私には仲間さえできた。このごみ置場で野鼠のおうに一日を過ごす、歯が欠けて腹の出っぱった三人のくず拾い。彼らは毎朝清掃車から吐き出されるごみの山を目当てに私よりも先にこの現場にやってくる。年老いた二人の男と一人の老女、顔色がくすみ、歯茎はむきだし。午後は、腐臭を発するごみの山を背に、額に汗をにじませながら、雑誌の切れはしを読む。プロレス新聞とか、漫画本とか、どれも野菜くずや西瓜の種がくっついたものばかり。三人とも鉄の眼鏡をかけている。おそらくごみの山からひとったものだろうが、かえって目が疲れるようだ。ときおり老女はもっとよく見えるようにとレンズに唾をつけてシャツの袖でふいている。その間、二人の男は彼女をからかったり、ひやかしたりしている。彼ははエタと呼ばれる人々で、明治維新によって日本人の仲間入りをしたかつての不可触賤民である。だが彼らは今も朝鮮人とともに下層の仕事を分け合っている。世間は彼らを蔑視しているが、私にはこの三人もそのお返しに世間を蔑視しているように思える。彼らは私のしていることに興味を示し、何かの復讐のように、通行人が「見られている」のに気づかずに通り過ぎていくたびににやにやしていた。五時ちかくなると、彼らはここでひろったものを売りさばくためにあたふたと上野駅に向かい、そしてどこか知らない場所で寝るのだ。

 こうして私には壁だけが残る。光がもっとも美しくなる時刻だ。北風が吹くと、霞町のほうからバイエルン料理の「ラインラント」のソーセージの匂いが漂ってきて、鼻孔をくすぐる。退屈すると、私の壁から南に百メートル先にある古本屋に行く。そこで私は雑誌類に埋もれたサドとレティフを見つけた。英訳の海賊版で印刷は台湾という最悪の代物。ちょっと立ち読みしただけで、あまりの猥褻さに顔を赤らめ、すぐに壁に戻った。腹が減ると、いつものように野菜くずをあさる。たぶんわが同僚たちが忘れていったのだろう。まだ十分食べられるトマトがいくつか残っている。これを見ると、日本人がエタのことを怠け者だと非難するのもうなずける。

 その夜、私は最後のフィルムを使いきった。ちょうどいい。四日間で私はすっかり誇大妄想狂になっていた。ただの通行人では物足らなくなっていた。私の壁の前で喧嘩とか殺人とか、大立ち回りが起こらないかと願っていた。ひょっとすると天皇さえも……。

(中略)

 私の壁の劇場。それを私は東京のある雑誌社に売った。最初に見せた二人の編集者はこの写真にとまどった。そして四人、八人、十六人と集まってくる。彼らもまた何年間もその壁の前を通り過ぎていながら、気づかなかったのだ。いつもタクシーや電車ばかり乗っているとそういうことになるのだ。
 この写真で得た収入はヨーロッパ行きの便の半分くらいの額になり、……(「壁の劇場」、『ブーヴィエの世界』104頁〜108頁)」


もちろん、写真を撮る撮らない以前に、壁の再発見に導かれるほどに、そして午後五時ちかくに、「光がもっとも美しくなる」ことを知るほどに、自分を使い尽くして、世界の知覚が研ぎすまされていたことが大きかったと言えるだろう。*4 自分が世界の外延と等しくなるほどに空っぽにならなければ、世界はそのありのままの美しい姿を現さない、ということだろう。彼は東京で、ごみの山を背に、そのコツをつかんだ。しかも、それは写真にかぎらない。彼自身の変わった表現に倣えば、「世界の使い方」ということになる。世界はそのすべてを上手に、美しく使われることを待っている。彼はそのことを「音楽」とも表現した。


1955年から56年にかけての最初の日本滞在では、ブーヴィエは日本のど真ん中の「底」から日本(人)を見た。その後、1964年から66年までの二度目の日本滞在時には、ブーヴィエはいよいよ北から南まで「波打ち際」を歩き続けることになる。


Nicolas Bouvier (ici dans sa chambre à Tabriz, en Iran en 1954) *5

 1953年〜56年

 53年の6月、ティエリー・ヴェルネとともにフィアット・トポリーノに乗り、ベオグラードからカブールまでの旅を始める。ニコラ・ブーヴィエ24歳、ティエリー・ヴェルネ26歳。二人連れ立ってユーゴスラビアからトルコ、イラン、パキスタンに至るこの長い旅を踏破した。パキスタン到着は五十四年の春。ティエリー・ヴェルネは絵を描き、ニコラ・ブーヴィエはメモを取り、旅日記をつけはじめる。旅を続けるためのわずかな資金を調達するために、彼は定期的にスイスの日刊紙に記事を送る。出発してから半年後の12月、二人はカブールを過ぎ、ハイバー峠で別れる。ティエリー・ヴェルネは飛行機に乗り、セイロンで連れの女性フロリステラと落ち合い、そこで結婚。ブーヴィエはひとり旅を続け、インドを横断し、ビルマから中国の雲南省に入る予定だったが、政治上の理由で国境が閉鎖されていたため、1955年3月11日、インド大陸とセイロン島を隔てる海峡を渡る。首都のコロンボから、半年前からティエリー・ヴェルネが滞在していたガルに向かう。二ヵ月後、二人の友人は島をまた出たが、ニコラ・ブーヴィエは健康状態が思わしくなく、旅の続行を断念。セイロンに残ることにした。以降七ヵ月間にわたって彼はこの島でくすぶることになった。病気と抑鬱状態のために、理性を失いかける。1955年10月11日、コロンボと横浜を結ぶフランス郵船のベトナム号に乗船し、かろうじてこの島を抜け出した。船倉に寝泊まりする皿洗いとして働き、クレオール語とフランス語をちゃんぽんで話すアルシッドとフランシスという二人の黒人から片言の日本語を学ぶ。シンガポールサイゴン、香港、マニラに寄港したのち、1955年10月29日に横浜に到着。一年にわたりひとりで日本に滞在。日本の新聞・雑誌に記事を書く。この糊口の仕事ではとても間に合わないことにすぐ気づき、写真家になる。ある新聞社から東京と京都を結ぶ旧街道に関するルポルタージュを依頼され、六週間かけて徒歩でこの街道を踏破。彼にとって日本は東へ向かう道の果て、すなわち旅の終わりを意味した。1956年10月、今度は一乗客として横浜港からフランス郵船カンボジア号に乗船。スエズ運河が閉鎖されたころだったので、アフリカ大陸をひと回りすることになった。二ヵ月の船旅で、マニラ、香港、サイゴンシンガポール、セイロン、ボンベイマダガスカル喜望峰カナリア諸島に寄港した。マルセイユ到着は1956年11月20日、両親が迎えに来ていた。


 1964年〜1966年

 ブーヴィエ夫妻は、二歳の長男トマを連れて日本へ出発した。二度目の日本滞在である。今回の旅の目的は、編集者シャルル=アンリ・ファヴロが企画した「旅のアトラス」という叢書に入れる一冊の本を書くための資料収集。彼は現地で『日本』の執筆に取り組む。一家は京都に滞在。1964年の6月から9月まで、ニコラとエリアーヌは、当時再建されたばかりの大徳寺の瑞雲軒に管理人として住まうことになる。ニコラは本の執筆、エリアーヌは絵を描き、日本人にフランス語を教えた。12月、次男のマニュエルが東京で生まれる。東京にはほぼ一年住んだ。翌年の65年には、ニコラとエリアーヌは二人だけで旅に出る。マニュエルは東京の家で雇っていた家政婦に、トマは、ブーヴィエが最初の旅で出会ったフランス郵船の役員ピエール・ボニセルが住まう神戸に預け、明石、四国、九州、長崎、広島を巡った。1965年暮れ、エリアーヌは二人の子供を連れて日本を去る。ブーヴィエはひとり残って、四ヵ月間、北海道、佐渡対馬海峡の島々、九州、南部の島々を訪れる。(「ニコラ・ブーヴィエ年譜」、『ブーヴィエの世界』272頁〜278頁)


参照

*1:http://www.mdf.ru/english/exhibitions/moscow/windofroads/Moscow

*2:http://www.elysee.ch/index.php?id=143&tx_exposition_pi1%5BexpoUID%5D=45

*3:http://edizioni.fotografiafestival.it/2005/EN/dett_997.htm

*4:かつて藤原新也は午後4時を写真に最適な「魔境」の時刻と呼んだが、光の具合は、もちろん、季節にも、天候にも左右される。また、本質的に世界の輝きが光の具合にどこまで左右されるかは疑問である。

*5:http://www.brest.maville.com/actu/actudet_-Nicolas-Bouvier-ecrivain-voyageur-epri-de-musique-_loc-613789_actu.Htm