以前からいわゆる「ウィニー問題」の議論の流れにひっかかるものを感じていました。
7月29日(土)朝日新聞朝刊の特集「ウェブが変える」の三回目はその「ウィニー問題」を扱った内容です(文責:平子義起氏)。私はその記事が「ウィニー問題」の扱い方自体の難しさを示しているところが非常に興味深いと思います。それはネット特有の性格に起因する実態の把握と評価の難しさです。
その記事は氷山の一角にすぎない出来事(「被害」)、それらに対する行政の対応の実態、ウィニー監視システムを開発した一民間企業の活動の紹介を柱にして、最終的に「ウィニーを使うこと自体が、知らぬ間に情報流出の拡大に手を貸すという負の側面を持つ」と結論づけています。明言はされていませんが、文脈から判断するに、平子氏の念頭にある「正の側面」とは、ウィニーというファイル交換ソフトには「みんなで協力する」というインターネットの理想が反映されているということです。そうだとすれば、ウィニー問題はソフト自体やソフトを使うこと自体の問題ではなく、あくまでその「使い方」に関わるリテラシーや倫理の問題だということになるはずですが、なぜか議論はそちらには進みません。この記事は最終的に上の結論の「負の側面」の印象を増幅するような引用で締めくくられています。
米カーネギーメロン大学日本校の武田圭史教授(情報セキュリティー)は警鐘を鳴らす。「ウィニーはすでに制御不能だ。社会が許容できる限界を超えてしまったのではないか」
この武田氏の不安の表明は私にはほとんど「インターネットはすでに制御不能だ。社会が許容できる限界を超えてしまったのではないか」という「インターネット」に関する不安の表明に聞こえます。しかしこの種の表明は実は表明者自身の制御放棄宣言でしかないと思います。すなわちウィニーを排除することはできないインターネット全体のあり方を社会的観点から未来に向けて生産的、ポジティブに思考し展望することを放棄していることになると思います。
ウィニー問題で指摘される個人情報の流出、機密情報の漏洩、著作権侵害の諸問題が論じられる際に非常に気にかかる点は、そこでネガティブなイメージを喚起するために使用される一群の言葉です。被害、危険性、流出、漏洩、暴露、汚染、等。それらは、インターネットとソフトウェアへの未熟な関わり方の結果生じた事態の原因と責任を、ネットとソフトの側に転嫁するために非常に効果的に利用されています。私の考えでは、ウィニー問題の本質はネットやソフト自体の問題ではなくそれら以前の情報に対する自己管理や危機管理にあります。そしてネットに関する大局的な観点からは「正の側面」への信頼に基づいた活動の活性化を通じて「負の側面」が淘汰されるのを待つしかないのだと思っています。
また、この記事内の「キーワード」欄では、ウィニーの開発者である元東大助手の金子勇氏が著作権法違反幇助罪で起訴され公判中であることが紹介されています。これはウィニー問題の社会的現実性をフレームアップ、クローズアップさせた裁判なわけですが、この起訴そのものもまた「責任転嫁」のための「詭弁」に過ぎないと思います。