梅田×西垣対論

朝日新聞が「ウェブが変える」というWeb2.0の動向の目立つポイントを無難におさえた内容の特集を組んでいる。7/27はウィキペディアとブログについて。7/28はグーグルについて。そして別枠で梅田氏と西垣氏の「対論」。テーマは「新しいネットの姿『Web(ウェブ)2.0』。この大波は何をもたらすか」。ただし、「対論」といっても、実際に討論が行われたわけではなく、そもそも対立する見解を持っている両氏への個別のインタビューを「対論」として併置したもの、対論の演出である。しかしWeb2.0に対する両氏の認識と立場の大きな違いが浮き彫りになっていて大変面白い。
ウェブ進化論』の読者なら十分察しがつくように、梅田氏はあくまでWeb2.0によって拓かれた地平の「先」を見ようとしている。もちろん問題点を熟知した上での、「にもかかわらず」の立場からのオプティムズムを梅田氏はそこでも貫いている。
それに対して、西垣氏はWeb2.0の本質を「ネット全体を大きなコンピュータのように使えるようになった」と正確に捉えた上で、その結果もたらされたいくつかの利便性を一定の留保付きで挙げながら、しかし最終的には「ウェブ2.0がそのまま知の革命になる、というのはあまりに安易すぎるのではないか」と警鐘を鳴らしている(誰に?)。そして西垣氏は旧来の知の観点からWeb2.0の問題点を次のように指摘している。

多くの人の意見を並列に集めれば、そのまま自動的に新しい知が生まれるわけではない。多様な意見を組み合わせ、建設的な集合知を育てていくための方法はまだ未開拓だ。/ウィキペディアのデータはかなり正しいし、年代や人名などを調べるには便利だが、歴史解釈や人物評価などになると、どういう視点から記述するかが不明確になりがちだ。/グーグルなどの検索サービスは、情報のランクをコンピュータで自動的に評価し、他の人に参照されることで人気のあるページが、検索結果の上位に来る。/しかし、人気がなくても重要な情報はある。/民主主義の本質は、多数決による自動決定ではない。少数意見も含め、討論の中から合意を探っていくプロセスだ。情報を組み合わせ、深い知を探ることなく、ひたすら自動化を進めれば、その先にあるのは衆愚でしかない。/グーグルで検索できるのは、記述的、分析的な知識にすぎない、これらはむろん大切だが、人間は言語化できない暗黙知や身体知、直観という能力をもつ。ウェブ2.0の技術を使いこなし、いかに人間の知恵を深めていくかということが本来、重要だろう。今後の議論を期待したい。(/はオリジナルの改行の代わり)

朝日新聞7/28朝刊13面)
この批判的な指摘は一見もっともらしいが、そのもっともらしさを保証する「知」とは性質の異なる「知」が始まったことが「新しい」、「革命的」なのだという認識の必要性を訴え続けているのが梅田氏であると私は理解している。ここでは、
西垣氏による批判的指摘を(1)ウェブ2.0全体に対するもの、(2)ウィキペディアに対するもの、(3)グーグルの検索サービスに対するものの三点に分けて、それぞれに対して簡単にコメントしておきたい。
最初の批判において西垣氏は、Web2.0に関する認識不足を露呈しているといわざるをえない。ブログやウィキペディアオープンソースオープンソース現象の諸実例こそが「建設的な集合知を育てていくための方法」を例示していることを完全に看過している。(『ウェブ進化論』第4章、第5章参照)
第二の批判は、リアル世界で最も権威あるブリタニカ百科事典にもあてはまる批判である。
第三の批判において西垣氏は前半の「民主主義」に関して、「自動」、「人気」、「重要」、「多数決」といった安易に使われる語の理解をグーグルの検索技術は大きく、それこそ「革命的」に変化させてしまったのだということを看過している。一番致命的な点は、「多くの人」とか「多数決」の「多」の常識的把握がネット上では最早通用しない、想像を超える桁違いの「多」であるという点である。梅田氏があえて「不特定多数無限大」という生硬な造語によってなんとか伝えようとしたネット上の「多」の現実を認識する必要がある。逆に、現実世界で正々堂々と「自動」ではないような民主的プロセスが実現されたことがあるだろうか?いたるところで、「衆愚」ならぬ「少愚」がまかり通っているのではないか?という問いに西垣氏はなんと答える用意があるのだろうか。
後半の「言語化できない暗黙知や身体知、直観」といった「深い知」の存在や「いかに人間の知恵を深めていくか」という観点からのグーグルの検索技術に対する批判はたんに的外れである。グーグルの検索技術が関わるのはあくまで「言葉の組み合わせ」である。ただし、「言語化できない暗黙知や身体知、直観」といった「深い知」、「いかに人間の知恵を深めていくか」についての「知」さえ、「言語化」されざるをえないかぎりで、検索の対象になる。それにそもそもグーグルの検索技術は私たちが「問題」を持ち、その解決の糸口をつかむための「言葉」を「入力」しなければなんの力も発揮しない。その意味ではグーグルの検索技術は私たちの知的探求の能動性を活性化させる技術でもある。
「対論」を読む限り、西垣氏は『ウェブ進化論』をまともに読んでいないのではないかと疑ってしまう。旧来の「知」の世界で生きて来た人は『ウェブ進化論』をちゃんと読んで、もっと危機感を抱くべきである。
「知の革命」は大げさすぎる、というたんなる印象のような評価は、「知」そのものの変化についても、グーグルの「検索」技術やウィキペディアの意義についても何も語ったことにならない。インターネットのおかげで何かを知るにいたる現実のプロセス、ステップの前半は明らかに変化した。それが知的活動のすべてではないことは言うまでもない。だだ、それはそれだけのことと言って済ますことはできない大きな意味をもつ変化である。そして何かを創るために、あるいは問題を解決するために不特定多数無限大の人たちが協同的に動くことが、未熟ではあっても実現可能になったことの意義も計り知れない。従来これらに匹敵する「知の革命」が現実世界で起こったことはない。そういう文脈の変化の中で「知」の捉え方そのものが変化しているのだという点がウェブ2.0の思想的核心である。
蛇足ながら、グーグルに限って言えば、グーグルの検索技術に対するすべての批判は無効か的外れになる。唯一の例外はそれを認めて、それ以上の技術を開発することである。