共通言語:Crowdsourcing

私にとってはとてもハードな文脈で、梅田さんが「Outsourcing」ならぬ「Crowdsourcing」という興味深い「共通言語」の誕生について語っている。
http://d.hatena.ne.jp/umedamochio/20060807
その文脈は次のように明示されている。

ウェブ進化論」第五章「オープンソース現象とマス・コラボレーション」の中でも議論した「群衆の叡知」に関わる大きな流れを、企業や組織がこれからどう戦略的に活用していくかという話である。

要するに、「企業戦略としての『Crowdsourcing』」であり、あくまで企業・組織の側から「Crowds」を見るプロの視点に関わる文脈である。そしてそこで退けられているのは「アマチュアが組織の外で協力して大きな価値を創出できる」的な「きれいごと」を語る文脈であり、「アマチュア論」みたいに「Crowds」側に焦点を合わせてモノを見る見方である。
この排除の身ぶりが意味することをさらに別の「共通言語」を創出することによって明確にすることが私の宿題のような気がするが、それには、文脈をさらに慎重に選り分けた別の議論が必要だと思うので、別の機会に譲りたい。
それとは別に、私が興味を覚えたのは、クリス・アンダーソンによる「ロングテール」や、今回のJeff Howeによる「Crowdsourcing」のような「共通言語」の発明、創出ということ自体である。この点に関する梅田さんの考えは次のようである。

オリジナルで誰が言い出したかというようなことはさておき、こういう役割を果たす人がいて初めて、より多くの人を巻き込んだ議論が促進される。そのための共通言語ができる価値は大きい。

また関連して、佐久間洋一郎氏の次のような一般論が引用されている。

新しい語が定義されることで、初めて一般の人が議論できるようになり、また今まで見過ごしてきたことが見えてくる。そしてそこからまた新しい知識が生み出される。

このような「共通言語」の創出は、個人的体験の文脈では茂木健一郎さんがいう「アハ!体験」に通じるものを持ち、集団的経験の文脈では「より多くの人を巻き込んだ議論が促進される」という効果を持つ。ここで、「共通言語」になる/ならないの基準はどこにあるのか、という問いに単純な答えを期待することはできないような気がする。なぜなら、それはあたかも生物進化がそうであるように、「結果」として後付けできるだけのような気がするから。しかし、どうだろう。例えば、「クオリア」はすでに世間で共通言語化しているといっていいだろう。一方、「アーキペラゴ」は私の中では共通言語化しているが、世間ではそうは見えない。ケースバイケースと言い逃れずに、共通言語自体の最低限の有効な定義は可能だろうか。例えば、共通言語とは、誰もがその気になれば学習可能なコンセプトを表す言葉で、それによって従来未知であった事柄がより多くの人に知られるようになり、かつその結果、世界や人生の改善が見込まれる、そのような言葉である。では、どうだろう。どなたか、ご意見を。