『すばる』9月号に菅啓次郎さんによる独特の強度に満ちた文章が掲載されているのを見逃すところだった。
菅啓次郎「海と島の反転から生まれる詩」(『すばる』9月号 p.457)
これは先月何度か「会社」と「世界」の未来形という文脈で言及した今福龍太吉増剛造『アーキペラゴ 群島としての世界へ』の書評である。菅さんは冒頭から『アーキペラゴ』の最も深い層にストレートに言葉を繋ぐ。
ヒトは一人では考えることができないし、詩も書けない。感じ、考え、考えを刻むことは、つねに他の多くの人々とともにあり、数々の土地とともにある。それで旅は探究と一致し、探究は言葉の発見と一致する。ぼくはいつもそう思ってきたが、この考え自体、もちろん誰かから学んだものだった。ランボーに、ロートレアモンに、あらゆる言語のあらゆる詩人に。そんな共同性・触発性は、言葉が露をむすび雲のように湧き上がるときの根源的な秘密だが、ここにそうした発生のプロセスを最大の主題とする、驚くべき対話篇が編まれた。
そして菅さんは今福龍太、吉増剛造という「猛烈な旅人」が継続する「戦い」の本質と彼らの「敵」、そして彼らの戦略的モデルとしての「アーキペラゴ」という「反転可能性」のヴィジョンの生産性について簡潔に書いている。こんな書き方ができるのは、菅さん自身がその二人に劣らぬ「猛烈な旅人」だから、ということもある。そしてそのような「旅」は私には縁遠いと感じる。しかし、それは明らかにひとつの「解答」なのだとも感じる。そのような「旅」へ「『私』を放擲」することによってしか解けない「問題」への。
翻って、こうやって私は実はネット上の旅(移動)における「共同性・触発性」に懸けているのだと思った。