茂木健一郎著『生きて死ぬ私』を読む

以前、「off the grid」の意味についてちょっと書いたことがありました。
http://d.hatena.ne.jp/elmikamino/20060711/1152640531
墓参り等の用事もあって、たった4日間ですが、パソコン&ネットから離れた(off the grid)生活を送り、そして今日グリッド上に戻りました。英語で表現するとさしずめ、
So I’m back on the grid, after a (never long enough) break with my family.
のようになるのでしょう。
その間、茂木健一郎著『生きて死ぬ私』(ちくま文庫)を読みました。恥ずかしながら、茂木さんの著作を初めて読みました。

生きて死ぬ私 (ちくま文庫)

生きて死ぬ私 (ちくま文庫)

いろいろと深く感じることがありました。特に「生きる」という究極の文脈で。
今はまだそれらについて書く準備ができていませんが、いずれ書くことになるでしょう。

ここではひとつだけ、私の研究テーマのひとつである言語の意味に関する茂木さんの非常に興味深い主張について書き留めておきたいと思います。
それは言語の獲得は一種の暗号の解読であり、暗号の解読が可能になる必要条件は意味空間の共有である、という主張です。
(『生きて死ぬ私』pp.207-208)
この主張が現れるオリジナルの文脈は文字通りの暗号技術に潜む哲学的問題の核心を明るみに出すというユニークなものです。

現代デジタル技術の最先端のテクノロジーに関わる暗号も、人と人との間のコミュニケーションという場面で考えると、単なる技術という枠組みを超えた、人間存在そのものに関わる哲学的な問題に変貌する。(p.204)

ここから、さらに「神の沈黙」の問題、言語の獲得の問題、そして最終的には「究極の哲学」のあり方の問題へと茂木さんはラジカルな議論を展開します。言語の獲得をめぐっては次のように書いています。

このようにして見ると、言語の獲得の過程も、一種の暗号の解読であるとみなすことができないか? つまり、新生児の頭の中には、すでに基本的な意味のセットがある。言語の獲得の過程とは、この意味セットと、外界から入ってくる『未知の」文字、あるいは音声との間の対応関係をつけることであるとみなすことができるのではないか?(p.208)

私をふくめた哲学畑を歩いてきた人間の多くは、このような議論を素朴実在論に基づいた科学主義として過小評価してしまいがちです。そして例えば、かりに言語以前の「基本的な意味のセット」、すなわち「世界の解読格子の雛形」のようなものが新生児の頭、すなわち脳の中に存在するとしても、それは定義上、原理上、「言語以前」であるから、言語で表現することはできない、したがって議論の俎上にはのらない、と一蹴するかもしれません。

もちろん、そのような「文句」は百も承知の上で茂木さんは「新生児の頭の中」で起こるであろう過程を正確にイメージしようとしているわけです。一方では脳科学が捨象してきた意識や志向性や質の諸問題を再統合した「心脳問題」の地平での新たな理論化を精力的に押し進めているわけです。

実は私は「たまごプロジェクト」と名付けたある共同研究で、仲間たちとそのような「意味のセット」=「世界の解読格子」を「普遍言語」=「中間言語」と名付けて、人類に普遍的な諸カテゴリーの体系化の可能性を探ってきました。それも正しく言語以前なので、特定の言語に依存しない記号(コード)によって、頭の中の意味セットを記述するという方法をとってきました。とは言え、実際には私たちは母語を離れてそのような意味セットを考えることはできませんし、母語に依存した解釈なしに、意味セットをコード化することもできません。そこで、ややアクロバティックに、いわば母語を「透かし見る」ような感覚で、5カ国語の基本的な表現のセットを素材にして、基本的な意味のセットを中立的に記述する試みを試行錯誤しながらやってきました。まだまだ途上ですが。そんな経験をしてきた私にとって、茂木さんの主張は不思議なリアリティを感じさせるものです。

というのも、茂木さんが推進しようとする脳科学的アプローチによって、言語化以前の意味セットをニューロン群の発火パターンとして認識する道が拓かれるからです。科学的な観点からは、それが記号体系化(コード化)できれば、それを実装したシステムを媒介にして、どんな言語どうしの間の「翻訳」も、ある範囲で、実現可能になるはずです。

でも、どうでしょうか。ある特定のニューロン群の発火パターンがある特定の「意味」に対応していることを知り、伝えるには何らかの言語にたよるしかありません。つまり、すべての有意味な脳科学的命題は特定の言語において分節化されざるをえない限りにおいて、すべての脳内現象の認知は畢竟、言語を前提にせざるをえない、したがって、脳科学的言説全体が茂木さんの意図はどうあれ、相対化されざるをえない、という結論が導かれます。

しかし、にもかかわらず、茂木さんが推進しているそのような脳科学的言説自体の革命的変化によって、それを「含めた」われわれの言説全体の布置が大きく変貌することはありえます。そこにはもちろん、「生や死や私」をめぐる言説も入ります。私の個人的な経歴は、科学(生物学)から小林秀雄を経由して哲学へ、という流れの中にあります。十九歳の頃の私にとって小林秀雄の批評活動は「自意識」や「脳髄」に閉じ込められた「私」の強迫観念を自己治癒していく過程に映りましたが、私にとってもっと火急だったのは「言語」に閉じ込められているという強迫観念の方でしたから、詩的言語や哲学の方に向かったのだと思います。茂木さんはむしろ小林秀雄の問題を小林秀雄以上に徹底しようとして、脳科学に向かい、誰も予想しなかったような、言説の地平を切り拓いている。そしてその地平に新鮮な驚きを感じている自分がいることに気づきます。