『島ノ唄』をめぐる道

最近私の中では「アーキペラゴ(群島)」と「クオリア(質感)」の二つが想像力の起点、結節点になっている。ブログという「不思議なメディア」(中山さん)に自覚的に分身を放擲して以来、ブログ圏Blogsphereでこそ「アーキペラゴ」が強力なリアリティを獲得しつつあるという実感を持っている。実名/匿名、リアル/バーチャル等々の二項対立図式に捕われた議論はそこではもはや何の効力もない。敢えて言うなら、実名が錨を下ろすリアル世界を根底から揺るがし変容させるような動きがブログ圏では活発化しているのだ。実名とはもうひとつの匿名にすぎないことを認識しなければ、匿名コミュニケーションに関する議論の展望は覚束ないだろうし、匿名を隠れ蓑にしたメッセージの発信が擁護される限り、実名が根ざすリアル世界の本質的な変化も望めないだろう、と思う。
『横浜逍遥亭』の中山さんがドキュメンタリー映画『島ノ唄』をめぐって素晴らしい文章を書いている。
東中野の先の、島へ」http://d.hatena.ne.jp/taknakayama/20060817
以前、私がまだ観ぬ『島ノ唄』は素晴らしくないはずがないという確信に近い直観に頼って書いた推薦文に鋭敏に反応してくださった中山さんは群島的移動を敢行するかのような見事なフットワークで『島ノ唄』上映中のポレポレ東中野に飛び、そこから映画の舞台となった「島々」へと魂を飛ばしている。その奇蹟のような群島的軌跡に私は震撼させられた。まさか?本当に?しかも、そこでは「島の自然と事物が吉増剛造さんを通して言葉に昇華されるプロセス」から「自然の音」を再現する「監督の感性と技術の確かさ」によって「我々を存在せしめている根元的な何か」へと我々を誘う見えない道、群島的地図が正確にトレースされていた。
しかも、梅田さんの役柄への連想をも書き留めた中山さんの想像力の振幅の大きさは凄い!