絵画と言語

ゲルハルト・リヒターのペインティングにぞくぞくする。

GERHARD RICHTER ゲルハルト・リヒター (DVD付)

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リヒターは、彼(ジョン・ケージ)の「私にはなにもいうことがない、だからそのことをいう」という言葉に強い印象を受けたことを証言している。
リヒターのグレイは(中略)その(何か別のものの)到来の不可能性を知悉したメランコリーの塊でもある。
メランコリーの中に、希望の亀裂を生じさせる(……)(林道郎「灰色の絵画」p.75)

(追記)
林道郎氏の言葉は、非常に分かり難いが、大事なところに触れている気がする。メランコリー(憂鬱)とは、不意に外からやってきたネガティブな(「醜」や「死」や「暴力」や「憎」の)経験から生じ、不意に外からやってくるポジティブな(「美」や「エロス」や「愛」の)経験から隔てられた心の状態である。だから、希望の亀裂とは、美やエロスや愛への通を開く、ということだろうか。いや、そんな単純なことではない気がする。ネガティブな経験の要素がネガティブなままだと、いくらポジティブな経験を重ねても、憂鬱に希望の亀裂は生じないだろう。醜いと感じたものの中に美しさを発見したり、死や暴力の中にエロスを見たり、憎しみの中に愛の萌芽を見ることができるようにならなければ、そこまで心を鍛えなければ、鬱は解消しないような気がする。写真家荒木経維さんの枯れて萎れて醜い花の美しい写真を思いだした。


生成言語学の流れを汲みつつも、より大きな科学的視野において言語を総合的に捉えようとしてきたレイ・ジャッケンドフの大著『言語の基礎』が面白い。

言語の基盤―脳・意味・文法・進化

言語の基盤―脳・意味・文法・進化

神経心理学の観点からは、概念構造を貯蔵し処理するための神経の集まりは実際、脳の中に閉じ込められているということを認識する必要がある。外の世界には直接アクセスできないのである。したがって、第9章で強調したように、概念構造が世界の中の何かの記号だとか表示だとかいうこと、つまり、何かを<意味する>のだといことを明確に否定しないといけない。むしろ、概念構造<こそ>が意味なのだと言いたい。概念構造は、推論や判断を助けるなど、まさに意味がするはずのことをするのである。すると、言語が意味をもつのは、概念構造と結びつくからだということになる。(pp.360-361)

言語理論と心理主義的な実現との間の折り合いをつけるために、本書では、脳の中の言語的存在物は、<象徴(symbol)>だとか、<表示(representation)>だとかであるという考えを放棄することが重要であった。その代わりに、これらを、離散的(デジタルな)組み合わせの単位からなる、単なる<構造(structure)>として扱うことができた。音韻論や統語論の場合には、これはさほど困難ではなかった。しかし、意味論の場合には、第10章のほとんどを費やして、神秘性にあふれた志向性に代わるものを考える必要があった。すなわち、言語を実現するすべてのメカニズムは脳の中に閉じ込められているのに、どのようにして言語が世界を指しているように見えるのだろうかという問題である。しかし、ここでも、この問題は言語特有のものではないことが明らかになる。むしろ、物理世界を大体人間と同じように知覚するどのような生物の視覚や他の知覚/認知の様相にも関係するのである。このような特定の形で問題がとらえられてしまったのは、この問題が伝統的に言語の哲学からきているからというだけなのである。(p.507)

音韻論と統語論は、結局のところ、意味という、これらよりもずっと長い進化的な歴史をもつものを<表現する>ために進化したものである。さらに、すでに見たように、意味として伝わることの大部分は暗黙のものであり、発せられた単語やそれらを組み合わせる統語構造には全然表現されない。したがって、意味は、それを表現する言語よりもずっと複雑なものであって不思議はない。(p.513)

今までの30年間に開発してきた道具は励みになるものであるが、言語学だけでは、この研究の重さを支え切れない。可能なところすべてから手に入れることができる限りの援助が必要である。とりわけ、この本が、共同研究という、なくてはならない文化を奨励するのに役立てばよいと思っている。(p.514)