泉麻人さんの流儀

概念、カテゴリー、論理等の「形式」の生成や構築に関わる仕事が多い中で、それとは真逆の仕事に強く惹かれてきた。そんな中でも、概念やカテゴリーを徹底的に退けるような態度を貫く線で、従来の「詩」というジャンルを解体し続ける詩人の吉増剛造さん、既存の学問が依拠するあらゆる「形式」に反旗を翻すような想像力の豊かな「内容」を提示し続ける今福龍太さん、そしてその二人の仕事に深く呼応するような、非常にエッジのきいた批評的言語の未曾有の地平を切り拓き続けている菅啓次郎さん、の三人は私にとって特筆すべき書き手である。そして、彼らに劣らぬくらい私を強く惹き付けて止まないのは、意外に思われるかもしれないが、「超通俗的」コラムニストの泉麻人さんである。

しかも、私にとって、「超」難解な詩で知られる吉増剛造さんと「超」通俗なコラムで知られる泉麻人さんはかなり近い存在である。その「佇まい」や「眼差し」や「繊細さ」や「優しさ」の共通性をはじめ、共に私の想像を遥かに超える猛烈、マニアックな「旅人」であり、世の中がオウム事件や9.11など大きな出来事の報道で浮き足立つような時でも、微塵の動揺も見せず、言動も変質せず、要するに誰も「裏切らない」、したがって「信用できる」人である。正反対に見える難解と通俗が「超」を介して接近し、私の中で繋がる。リアル世界で二人が接する機会はないだろうが、私にとっての言葉の世界では、二人は表裏一体、メビウスの帯関係にある。

最近の私の情報収集のひとつの目安は「世の中まんざら捨てたもんじゃない」と感じるか感じないかである。

「〜は終わっている」という呟きとともに思考停止してしまいそうになる頭を抱えながらも、自分自身が心肺停止して本当に終わってしまわないようにしなければ、とかろうじて思う。そんなときには「まんざら捨てたもんじゃないじゃない」と感じるモノ・コトによって、救われた気分になり、励まされもする。

泉麻人さんは、私のかなり偏向した個人的な「本物の知識人(genuine intellectual)」分類表のトップ欄にランクインしている。56年生まれだから、私の1年先輩。年齢が近いということも贔屓目につながっているのかもしれない。一般にはマニアックな旅を綴った軽妙洒脱なコラムニストとして知られ、昨年ある民放テレビ局の夕方のニュース番組のキャスターに登用され、私はそのテレビ局の意外な英断に個人的に大きな喝采を贈ったが、なぜかごく短期間で降ろされた(なんだよ、やっぱりな)、といえば、ピンと来る方もいらっしゃるだろう。

ウィキペディアの「泉麻人」の項目に、「日本のコラムニスト泉麻人」の真っ当さと凄さを垣間みることができるなかなかユーモラスで興味深い記述を見つけた。

現在、東京近郊の私鉄やバス会社の情報誌などにコラムを掲載する機会が非常に多く、その会社の旧型車やバス停などの個々を細かく解説し、話術から「現地に行ってみたい」と思わせる効果があるため、掲載後に一時的にその会社の収益が大幅に増える現象も起こっている。

思わずニヤニヤしてしまった人は泉麻人をよく知る人に違いない。浅い解釈では、巧みな話術(文章術)を武器にした、現代の考現学者兼鉄道・バス会社臨時増収請負人、といったイメージしか浮かばないかもしれない。それはそれで仕方がないし、泉さんはむしろそれ以上の深読みを嫌うかもしれない。しかし、私は深読みしたい。逆に私にそうさせる本物のインテリジェンスとしての力が泉さんにはやはりあると強く感じるからだ。

この社会に対する絶望感が泉さんの中にないわけではない。だが彼はそれをはるかに上回る幸福感を手にする術、生きる力の発揮の仕方、集中の仕方を、徹底的に身につけたのだ。おそらく、多くの男の子がもつ幼少の頃の昆虫採集や電車やバスへの偏愛は、実は幼く敏感な心がつかむ幸福習得法だ。だが、たいていの子はある時期それを手放してしまう。その方法を泉さんは大人になるまで、現在に至るまでずっと、手放さず、育て鍛え上げてきた。その途上で生み出された強烈な幸福感を湛えた言葉が、彼のコラムの数々だ。

本屋に行くと、私はその時々の自分の「時代の気分」を確かめるように、必ず文庫本コーナーを何周も巡る。あれこれ手に取ってはぱらぱらとページを捲り、その気分との距離を測る。そして、多くの場合、夏目漱石の数冊と泉麻人の数冊を何度も手に取ることになる。最近では文庫化された茂木健一郎さんの数冊も。今、新聞や雑誌や本やコピーの束などが乱雑に積み重なった眼の前の机の上では、夏目漱石『道草』と泉麻人『バスで田舎へ行く』が普通に寄り添っている。