奄美自由大学には不動産としての建物や設備はない。したがって「教室」もない。逆に言えば、いつでもどこでもが「教室」になりうるし、だれもが先生にも生徒にもなりうる。そんなある意味で極めて厳しい「自由」を標榜する「大学」にふさわしい「教室」は「巡礼」という旅のひとつの原型に習って選択されている。巡礼の途上で「教室」に見立てられる場所は、基本的に「異界」、「常世」に接するゾーンである。それは文字通り「墓」、それも太古の風が逆巻くようなノロの墓であったり、日本が切り捨て忘却した過去の記憶の生き証人のような人たちの生活の場であったり、あるいは生命の根源を震わせ続ける海と陸の狭間、汀(なぎさ、みぎわ)であったりする。
そのようなスポットを経巡りながら、巡礼者となった参加者たちはごく自然に相手を入れ替えては歩調を合わせ、お互いのイメージと言葉のなかに映し出される己の歪んだ姿とこわばった心を垣間みながら、少しずつ少しずつ歪みを正し、こわばりを解きほぐしてゆくことになる。心と身体の深いチューニングのレッスン。それを可能にするのは、「奄美」という特異な世界、今福龍太さんの言葉を借りれば、大陸的世界ではない、「群島的世界」の硬質の多様性である。
私は奄美空港に降り立ったときから、なぜか島の花や木、植物たちや昆虫、動物たち、土、石、そしてもちろん珊瑚、珊瑚礁、海、空、雲に挨拶しなければならないと思い込んでいたふしがあった。盲滅法にデジタルカメラのシャッターを切り続けたと書いたが、何かに押されるようにして、挨拶代わりに、それらの写真を撮っていたような気もする。現に、約1000枚の写真のほとんどには人間は写っていない。むしろ、人間たちを支え、包囲し、時に脅かす物たちの写真がほとんどなのだった。それから、古い家、道、川。
奄美大島にいる間中、私の聴覚は半ば異常だった。絶え間なく、波の音、風の音、蝉の声が入れ替わり、あるいは混じり合って四方から聴こえてくる中で、録音機をやっぱり持ってくるべきだったとひどく後悔したのだった。一番怖かったのは、最終日、名瀬市内の「おがみ山」に登ったときの圧倒的な蝉の合唱だった。数種類の蝉の声が途方も無いオーケストラの大音響のように私の耳を襲った。「狂気」という言葉が浮かんだほどだった。
1000枚の写真のスライドショーを作った時に、偶然、無意識に選んだBGMはピアノが極度に禁欲的に響き、その隙を窺うようにして限りなくノイズに近い自然の音のようにも聞こえる電子音が侵入するAlva NotoとRyuichi SakamotoのInsenとVrioonだった。どう見ても「南国」の映像に、北極圏を彷彿とさせる音響が、奄美滞在中の私の感情にこれ以上ふさわしい音はない、と確信するくらいフィットしていて驚いた。
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