奄美の精霊の悪戯:奄美自由大学体験記1

昨夜遅く、常春、常夏の奄美大島から戻った。

奄美自由大学初参加は容易には言葉にできない幾つもの脈絡が複雑に折り重なったような深く大きな体験だった。一日たった今でも意識の全体がゆったりと大きく揺れ動いているような、ちょっと船酔いにも似た感覚が消えない。私にとっては5年越しの願いがやっと叶った奄美自由大学初参加の意義については、焦らずに少しずつ言葉にしていくつもりだが、ここにその輪郭の一部だけでもスケッチしておきたいと思う。

まずとにかく主催者の今福龍太さん、常連の吉増剛造さんをはじめ、沖縄から、フランスから、アメリカからやってきた詩人たち、国内の出版社や新聞社の編集者の方々、夢に懸ける瑞々しい若者たちとの有形無形の素晴らしい交流があった。そしてそれを大きく包み込むような奄美に生きる人たち(奄美自由大学の屋台骨となっているらしい写真家濱田康作さんや南海日日新聞社記者の登山暁郎さん、ある集落で私たちを歓迎し、もてなしてくれた私にとってはある意味でとても「懐かしい」人たち)、さらに彼らを通して立ち昇ってくる「奄美」としか言いようのない独特の陰影深い世界との交流が絶えず私の意識の底、下で不思議な声か音楽のように聴こえていたような気がしていた。そんな驚くべき豊かな経験と学びの現代社会に対する批評性にも溢れた時空をデザインし万難を排して実践し続けてきたのが今福龍太さんなのだった。
奄美自由大学が終了した10月8日の夜、飛行機がとれなかった私はひとり名瀬の宿に一泊した。島尾ミホさんにどこかで会えるかもしれないという荒唐無稽な想像をしていた。翌9日、午後2時5分奄美空港発のJAL機に乗るまでの半日、私は名瀬の町を歩いた。
まず名瀬の町を見守っているような「おがみ山」に登り、美しく湾曲した浦に臨む名瀬の町をじっくりと何度も眺めた。おがみ山を降りてから、川沿いにのびる永田橋市場、末広市場を覗き歩き、八百屋と酒屋で店主と世間話をしてお土産を少し買った。それから、ティダモール(アーケド)を歩いた。偶然入った古本屋「奄美庵」で、吉増剛造さんが何気なく示唆してくれた島尾敏雄著「名瀬だより」が収録された『島尾敏雄非小説集成全六巻』を思い切って購入した。(帰りの飛行機の中で私は「名瀬だより」を初めとする「南島篇1」をむさぼるように読むことになった。)なんと、そこの店主は前日、奄美自由大学に顔を出してくださった、吉増さんとも昵懇(じっこん)の森本さんだった。短い時間だったが話が弾んだ。最後に、まだ奄美名物「鶏飯」を食していなかった私は、地元の老人に薦められた食堂に入った。するとそこで前日まで行動をともにしていた若者三人と出くわした。彼らは翌日それぞれのやり方で帰るという。鶏飯は美味かった。食事の後、彼らと別れ、私は12時05分発の空港行きのバスに乗るためにターミナルへ向かった。
その間私は可能な限りデジタルカメラのシャッターを切り続けていた。それまでも千歳空港を発った飛行機の中から雲海を撮り続けることに始まり奄美大島上陸後もずっとそうだった。カメラは首からぶら下げずに、ずっと右手に持ち続けた。そのうち右手の一部になったような気がした。まるで右手の先にもうひとつ「眼」が出来上がったような感じだった。そんな眼で直観的と言えば聞こえはいいが、ほとんど盲滅法に撮り続けた約1000枚の写真をスライドショーで見ると、撮影時の意識と知覚を超えた多くの事実に気づかされハッとする。そしてスライドショーからは奄美滞在中から今現在もずっと私の意識の底を刺激しつづけている不思議な声のような音楽が聴こえるような気がする。その正体を明らかにすることが私の宿題だ。

ところで、そんな揺れる意識を引きづりながら、今日は講義「情報デザイン論」をやった。ブログで予告してあった自画像スライドショーは、(予想通り、)自分の自画像が公開されることに躊躇する学生が数人いたので、取りやめ、授業内容をセカンド・レシピに切り替え、前回の授業内容を敷衍しつつ一層深める内容をかなり気合いを入れて話した。


見えない情報に「形」を与えるのが情報デザイン。見えない情報とは、経験の総体、すなわち記憶の総体。だたしそれらは「物」ではなく「事」。つまり、「関係」。だから「見えない」。そのような記憶の大半は放っておけばすぐに想起困難な状態に陥る。だから、せっかく体験したこと、貴重な記憶をできるだけ多く想起できるようにするために、言い替えれば、経験の記憶を発想のための生きた資源とするために、イメージと言葉を二つの主要な媒体とする記録の方法と再生=想起の方法を毎日の生活の中で工夫する必要があるということ、等々。
また、好きな写真をしばらく見て、想起したことを、短歌または俳句の形式に落とし込むという、強制ではない、基礎レッスンを紹介し、私がその見本を示した。短歌や俳句はかなり複雑な体験を記録し、かつ優れた想起のトリガーにもなる一種の記憶術であり、それらは膨大な情報を呼び出すインデックス、アイコンの役割さえ果たす、ことを強調した。
最後に、私が美崎薫さんに啓発されて個人的に取り組んでいる記憶想起と発想のための写真スライドショーの一部を学生たちに見せ、その効用について力説した。

講義終了後、研究室に戻り、1時間ほど経ってから、ノートパソコンを教室に忘れたことに気づいた。それまでの私にはありえないことだった。不思議さと焦りの入り混じった気持ちを抱きながら、紛失してもう戻って来なかったらどうしようかと思案しながら教室に駆けつけた。それが無事、無人の教室の教卓の上にあるのを見て、ほっと胸を撫で下ろしながらも、私は奄美滞在中から頻発した不思議な置き忘れのことを思い出していた。一番ひどかったのは、キャスター付きの旅行鞄の錠の鍵を紛失して鞄を開けられなくなって、困った挙げ句に、宿のスタッフにこじ開けてもらって、やれやれと思っているとき、思わぬ場所からその鍵が出てきたことだった。何人もの人に心配をかけた。ある人には、その発見された鍵は「お守り」にしたほうがいいとまで助言された。私はその日一日その鍵をシャツのボタンに引っ掛けて「お守り」にしたのだった。その話を聞いた写真家を志す(?)若い人は、奄美の精霊(スピリット)のちょっとした「悪戯(いたずら)」にちがいない、でも、それは無闇に怒ったりしない人に対してだけする愛情の籠った悪戯だ、という魅力的な解釈をしてくれたのだった。私はそんな奄美の精霊を札幌に連れて来てしまったのか、と苦笑した。