私はまだ軽率に「日本」と書いてしまいがちだが、そもそも奄美自由大学に参加したいと願ってきたのは、「日本」という単一で平板なイメージに亀裂が走り、底が割れるような揺れの震源地が奄美群島にあると予感していたからだった。わずか4日間の滞在ではあったが、今福龍太さんによって、正確にフレームを切られ、鮮明に焦点を絞り込まれたアマミの姿に私は多くのヒントを与えられたように思う。私の「旅」は始まったばかりだが、この未熟な手でつかんだアマミの破片をひとつでも多く少しはましな記録として留めておきたいと切に思っている。
奄美大島に滞在中に撮った約1000枚の写真からスライドショーを作ったとき、音があったほうがいいと軽い気持ちで偶然選んだ音楽が、滞在4日間ずっと感じていたある感情にぴったりで驚いた、と書いた。「北」をイメージさせる「さびしい」音楽だった。それがなぜかは分からなかった。
札幌に戻り、『島尾敏雄非小説集』全六巻を拾い読みしていて、第二巻『南島篇2』の冒頭におかれた「悲しき南島地帯」(昭和35年)が目に留まった。そこでアマミ独特の宿命的な「悲しさ」の心持ちを表す「カナシャル・シマ」という方言に出会った。どんな音なのだろう?「カナシャル」。「カナシイ」とは次元も振幅も異なることが、語尾の「ャル」にはっきりと感じられる。
島尾敏雄さんは、それをアマミ独特の自然の景観と過酷な歴史的事実の絡まり合いの中からいわば必然的に生まれた「古い島の人々の精神世界」の深い傾向としてとらえ、驚くべき洞察力、想像力で、その「悲しさ」を「廃墟」というイメージに繋げていた。
アマミの生活の基本的なさびしさは一個の廃墟(言うまでもなく文学的に誇張して言うのだが)をも持たないことのような気がする。しかし(中略)アマミの島々を構成する地質が微小動物の殻や珊瑚虫の骨格の集合であり、島ぐるみ巨大な構造物の廃墟だとすれば、(中略)むしろ巨大な廃墟の中で、現になお現実の生活を展開しているアマミの人々の生活というものは、その言い知れぬ魅力の原因をそのへんの事情に根ざしているのかもわからない。
人工物の廃墟は一つもないが、生活の土台である島そのものが巨大な廃墟=死骸であるという事実は、生活世界はそのまま「常世」と接している、ないしは重なっているというヴィジョンを人々の意識の底に孕ませるのではないだろうか。私も捕われがちな、死んだら終わり、という潔(いさぎよ)さげな、しかし実際には萎縮した死生観を深く豊かに革新する火種のようなイメージを、島尾敏雄さんはアマミに移住して後かなり早い時期からつかんでいたような気がする。
私がアマミで接した島に生きる人々の仕草や表情や言葉に感じ続けていた一種の「かなしさ」の感情の根源は、死者も含めて、人の数だけ、別々の時間が、死んだ後も流れ続けるような、地球上の水や大気の複雑な循環をイメージさせるような、私が見失っているスケールの大きな非常に豊かな何かであるような気がして来た。アマミ往復の飛行機の窓から執拗に何百枚も雲海を撮り続けていた私の意識の根源も、そこに関係していたのかもしれない。