日本と世界を「裏返す」:奄美自由大学体験記12

アマミからの帰りの飛行機の中でも私は窓越しにデジタルカメラのシャッターを切り続けていた。雲海は壮大な雲の峰をなし、時に断崖絶壁をなし、少しずつ見事な茜色に、それから次第に血の色に染まり、そしてついに暗闇の中に消えた。暗闇の微妙な変化を撮り続けようとしたが、バッテリーが切れた。

その後、羽田での乗り換えを経て千歳に着くまで、名瀬の「奄美庵」で買った『島尾敏雄非小説集成1南島篇1』をむさぼるように読み続けた。面白かった。『死の棘』をちょっと読んだだけで分かったつもりになって、それ以上知ろうとはしなかった島尾敏雄さんの人生とその記録の途轍もない深さと広がりに新鮮な驚きを感じながら夢中になって読んだ。

全6巻中この第1巻にだけ、21葉の古いアマミの写真が掲載されている。奄美庵の店主、森本さんは、その写真の稀少価値を熱心に説明してくれた後、高価本が収納されたガラスケースの中から大判の写真集(正確には、調査報告書)を取り出し、熱心にその素性と価値を説明してくれたのだった。食指がぴくっと動いたが、値段は10万円!今の私にはこの21葉の写真だけで十分すぎるくらいだと思うことにした。

島尾敏雄非小説集成1南島篇1』の冒頭には「『沖縄』の意味するもの」(昭和29年)が置かれている。そこで「沖縄」と名指されているのは、地理上の沖縄そのものではなく、大和、日本の中の「非/反/原・日本的な場処」全体であり、それは、島尾敏雄さんがやがて(翌昭和30年)移住することになる奄美大島をも含めた「南島」の謂いである。私は島尾さんが南島に惹かれた理由が、「日本」に対する深い絶望と微かな希望に根ざしていたことを初めて知って驚いていた。と同時にそれは私自身が奄美群島に惹かれ続けて来た理由でもあったことに気付いた。

この日本の国の、眠たくなるような自然と人間の歴史の単一さには、絶望的な毒素が含まれている。(中略)ぼくが言いたいのは、もうわれわれには見失われてしまった「生命のおどろきに対するみずみずしい感覚」をまだうそのように残している島が、この不毛の列島の中に残っていたということだ。(p.7)

日本国中どこを歩いても、同じような顔付と、ちょっと耳を傾ければすぐ分かってしまうような一本調子の言葉しか、ないということは、すべてのものを停滞させ腐らせてしまわずにはおかない。そこでは鉄面皮なおせっかいと人々をおさえつけることだけが幅をきかす。おそろしく不愉快なひとりよがりと排他根性。違ったものがぶつかり合って、お互いに骨を太くし、豊かな肉をつけるという張合いから、われわれは見離されていた。(pp.7-8)

言葉の通じない素晴らしい場所がわが国の中に確かにある、ということは、普通人々が考えている以上に(いや人々はほとんど気付いていないが)歴史の停滞を救って新鮮にする重要な要素であることだ。そのことに気付かねばならぬ。(p.9)

このような約半世紀前の過激で否定的な日本認識と非/反/原・日本的な南島の希望を今日修正すべき理由を私は見つけられない。むしろ日本の状況はもっとずっと悪化している。「絶望的な毒素」を空気のように吸いながら、「言葉が通じない」ことの価値には毛頭気付かない動脈硬化を起こした「文化」とはいえない画一的で浅はかなシステムの中で、私たちはお互いの首を絞め合っている、そのことにさえ気付かないほど麻痺した頭が我が物顔で闊歩している。「生命のおどろきに対するみずみずしい感覚」を己の中に甦生させ、そこから生まれる深みと弾力を備えた知恵をちゃんとした形に仕上げられない私を含めた大人たちに、どんな「教育」ができ、どんな「学習」の見本を示すことができるのだろうか。

私が奄美自由大学に「見た」のは、私が少なくても日本ではありえないと思い込んでいた「学び」の奇跡的な姿、形だった。そしてそれを支えているのは、「日本」がとらわれつづけてきた「大陸」の圧力の下での歪んだ「自画像」を、ヤポネシア琉球弧という、太平洋という「海」を「見えない大陸」と見立てたときに見えてくる、伸びやかな日本のヴィジョン、本当に瑞々しい「自画像」(「群島的世界」の一環としての)なのだった。アマミを梃(てこ)にして日本を世界を「裏返す」こと。奄美自由大学の射程は想像以上に深く遠くにまで及んでいることを私は嬉しい驚きとともに再認識したのだった。