魂の場処

世界は私の世界である(5.62)
私は私の世界である。(5.63)
独我論を徹底すると純粋な実在論と一致する(5.64)

論理空間という全可能世界の大海に浮かぶ島のような私の世界。私が経験した全事実から成る世界。その中には思考し表象する主体としての「私」は「存在しない」。そのような言わば「形而上学的主体」(ないしは「超越論的主体」)のための<場処>は世界の中にはない。敢えて言うならば、それは「世界」の「限界」そのものである。


そんなウィトゲンシュタインの考えを、私の経験を交えながら解説、敷衍している内に、「魂」という言葉が奇妙なリアリティを伴って浮かんできた。

ウィトゲンシュタイン自身は「魂」については、「人間の魂の時間的な不死性、つまり魂が死後も生き続けること、もちろんそんな保証はまったくない。しかしそれ以上に、たとえそれが保証されたとしても、その想定は期待されている役目をまったく果たさないのである。いったい、私が永遠に生き続けたとして、それで謎が解けるとでもいうのだろうか。その永遠の生もまた、現在の生と何ひとつ変わらず謎に満ちたものではないのか。時間と空間のうちにある生の謎の解決は、時間と空間の"外"にある」(6.4312)と、ある一定の否定的な文脈で書いている。

しかし、その魂は私の頭に浮かんだ「魂」ではない。私の頭に浮かんだのは例えば『論理哲学論考』という書物が「ある魂の記録」であると言うことに意味がある限りでの「魂」のことだった。「ある孤独な魂の記録」と言ってもいい。そしてそのような「魂」が、永遠でなくとも、とにかく生き延びられるような<場処>を誰しも本当は求めているのではないか。

ウィトゲンシュタインから学ぶべき一番大切なことは、彼が必死になって書き残そうとした、つまり生き延びさせようとした何かであり、そのやり方なんだ。その何かは「魂」としか言いようのないもので、容易には生き延びられない脆い、儚い、しかし人間にとっては「根」みたいなもの。それを失えば、本末転倒の生き方に陥ってしまうような大切なもの。彼はそれを『論理哲学論考』他の中に生き延びさせた。これはもう狭い意味での「哲学」や「学問」の問題を超えた、それこそ生死に関わる問題だ。生物学的な生死ではなく、魂の生死。死んだように(不幸に)生きるか、生き生きと(幸福に)生きるか、どちらを選ぶのかという問題だ。

最後の20分間を使って、『都市の深遠から 第2章ジョナス・メカス』を学生たちと一緒に観た。母国語を奪われて生きなければならなかったジョナス・メカスが母国語の代わりに駆使するようなったのがボーレックスの16ミリのカメラだった。それで彼は生活の隅々までを、ある時期からは「楽園の瞬間」と言える人間の幸福なシーンだけを撮り続けた。その膨大なフィルムを彼はブルックリンの工場のような映像博物館の片隅のデスクの上で、カタカタカタカタ、手動でフィルムを回しながら、文字通りスライドショーをしながら、想像を絶する長い時間をかけて、ひとつの映画を完成させる。撮影に何年というよくある長さではなく、それに加えて編集に10年とかいう時間のかけかただ。これは尋常ではないが、それこそ本当の「映画」、ビジネスではない映画なのだ。そういう映画には「魂」が宿る。同じようにして書かれる本物の「詩」、吉増剛造さんの詩にも「魂」が宿っている。

そういう意味で、『論理哲学論考』にも「魂」が宿っている。それに倣って、自分の魂を宿らせる<場処>を作ることが生きるということの積極的な意味なのではないかな。どう思う?