本の電子化の神髄とbookscannerさんの体験の意味

(これは、直接的には前エントリーに寄せられた美崎薫さんへの応答ですが、それを超える内容になってしまったので、コメント欄からエントリーに上げました。興味ある方、是非ご意見を。)

僕は、自分がなんとか言葉にしようとしていることは、すでに誰かがどこかで書いているだろうな、と感じつつ書いています。で、ここはブログなので、書物とは違う時間空間の相手に向けて書いているという感覚が強いのです。その相手とは何なのかまだよく分かりませんが。湊さんが書いておられることは、もっともですが、引用部分からは、湊さんご自身の立場と経験が見えないので、それに対しては、かるく「なるほど。それで?」と応答するしかありません。

むしろ、美崎さんの書店墓場観、「latest」観、「周回遅れの亀」主義、の方が、ピンとくる。私の想像をいたく刺激します。

で、私が触れようとしているのは、「写真を見る」という体験全体を構成する時間的な構造というか、うまく言えませんが、少なくとも単線的な「過去-現在-未来」という図式ではないし、ウィトゲンシュタイン=美崎(?)的な「永遠の現在」(そこに過去も未来も内蔵されている)の思想とも、どこかわずかに違うような時間観なのだと思っています。

気になっているのは、bookscannerさんが二度投じてくれた瑞々しい時間体験です。サンフランシスコのどこかの研究所の一室に籠って、寝る間も惜しんで、髪を振り乱し、血眼で膨大な量の書物のスキャニングに勤しんでおられるらしいbookscannerさんは、スキャンしようと開いた本の頁から目に飛び込んで来る色んな種類の染みや汚れを「忘れる」訓練をしながらも、しかしあるときある本のある頁の片隅に"Please forgive me"という書き込みを目撃する。スキャンの作業の手が止まる。bookscannerさんの仕事生活の時間はある意味で止まり、その書き込みを「引き金」にして、bookscammerさんの心の中で「別の時間」が流れ始める。まるで頭の中で一編の映画が突如上映されたかのような体験をする。

bookscannerさんご自身は、その体験のもつ「意味」ではなく、本に残された「染みや汚れや書き込み」を「本が持つ時間の貴重な記録」として、なんとかして、「バックグラウンド・レイヤー」に移植しようと腐心なさっている。それに僕はすごく驚いて、本の電子化の神髄を見せられた気がした、と書いたのでした。

ただ、一エンド・ユーザーにすぎない私としては、bookscannerさんご自身の体験のもつ「時間的意味」の方がすごくきになっています。