ウィトゲンシュタインと美崎薫:謎と血

今日は、一気に『論理哲学論考』からの「出口」へと学生たちをガイドした。

『論考』6.1251 それゆえ論理においても驚きはけっして生じえない。
『論考』6.5 謎は存在しない。
『草稿』現在の中で生きる人は、恐れや希望なしに生きる。
『論考』7 語りえぬものについては、沈黙せねばならない。



前エントリーに対して美崎さんから鬼気迫る報告が寄せられた。

『記憶する住宅』の実践では、そうした懐かしさがなくなります。すべてが現在になってしまうからです。そのときに心から血を流したような体験は、いまでもかさぶたにもならず、血が流れつづけています。

それは、ウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』で語った「永遠の現在」のいわば「実態」を証言する生々しい体験報告でもある。それに対して私は反射的に「謎」というウィトゲンシュタイン(『論考』)の要石である言葉を差し出しておいた。すでに昨日のエントリーで今日の講義のテーマは「謎」であることを告知してもいた。しかし、今日になって、それが「心が流す血」と繋がるとは予想していなかった。ウィトゲンシュタインもまた「血を流しつづけていた」のだと気付いた。でも、なぜ?ある意味で究極の理想の境地である「全知」に到達した心はなぜ血を流し続けなればならないのか?謎=血とは何を意味するのか?

美崎さんの報告に表立って登場していない時間は「未来」である。未来とは未だ来ない者の謂いである。未だ来ないが、いずれ来るかもしれない者、もしかしてそれこそ永遠に来ないかもしれない者、それはやはり謎であり、未知である。それは、まだ確信は持てないが、「全知+全能」の他者=神のことなのかもしれない。

講義の中では、当然のことながら、グーグルを「神」に喩えた。

今こうして辿ろうとしている険しい道の始まりは、bookscannerさんの「時間体験」についての私のコメントだった。bookscannerさんは、ページの染みや汚れ書き込みに、そこからいわば「無限」に開かれていってしまうような時間の入り口を垣間みていたのではないか、と今気付いた。

ウィトゲンシュタインの「事実」あるいは「命題」、そして美崎さんやグーグルの「データ」は、集積されて「全知」を構成するが、しかし、一個一個の事実、命題、データに立ち止まり覗き込んだときには、そこに無限の口が開く。

ねぶた君。君の興味深い「他者=自分」説に関してはfuzzyさんも敷衍してくださいましたが、「見ようとしても見えない自分」には「見ている自分自身」と「見るのを、何らかの理由で、避けている自分の部分」があると思います。ウィトゲンシュタインも美崎さんも後者の自分はすべて見通しちゃった上で、前者の行く末を見つめていると理解するといいと思います。つまり、自分なんてすべて分かり切ってしまった、と悟った自分のその「先」になにが待っているか、という問題です。それこそ「謎」があったら、いつでも質問寄せて。

そんな自分に「未来」はあるのか、という訳です。二人とも、「ない」、「必要ない」という訳ですよ。美崎さんの場合、少し違うかな?

とにかく、やや、箇条書きになってしまいましたが、グーグルのやろうとしていることも、「神」の問題もなんとか視野に入れることができたので、今後の展開には十分な地平が開けたような気はしています。明日からのHASHI展訪問、「記憶する住宅」訪問によって、さらにビジョンは練り上げられていくと期待しています。

美崎さんがたびたび『ベルリン・天使の詩』に言及なさっているので、久しぶりに観たくなりました。
それに、美崎さんが提起なさっている自分と他者の境界=インターフェースの問題、これ、次回「他者問題」として取り上げる予定です。
(一部の皆さん、明日HASHI展で。学生さんたち、土産話をお楽しみに。)