年表や時刻表からはじまり、カレンダー、スケジュール表、予定表、日記、そして大学生の場合は学年歴、時間割、等々と、私たちは「時間」に関する数多くのデザインに囲まれて生きている。他方では、なにもしなければ「見えない時間」、歴史を顕在化させるような書物やフィールドワークや地域の取り組みなどの情報デザインがある(『渡辺保司著『情報デザイン論入門』他参照)。
しかしながら、そのような時間に関わる既存の情報デザインの意義を改めて考えた時に、その根本には、私たちひとりひとりの人生が時間そのもであるという、当たり前すぎるが故に実はそのことについてちゃんと考える人がきわめて少ない、事実が横たわっていることが分かる。立ち止まってそこをしっかり見つめれば、自分の人生という時間を既成のデザインに完全にゆだねてしまわずに、自分独自の時間のデザインを工夫することの大切さが次第に見えて来るはずである。
人生という怪物のような時間をいかにコントロールするか。
これが、時間に関する情報デザインの根本的課題である。
ところで、自分の体験の記憶をいかに記録するか、というこれまで何度も語って来たテーマに即していえば、その膨大な記録をその気になればいつでも引き出す、想起することが容易な方法は、実は「時間軸」にそった記録法である。紙媒体では日記帳やシステム手帳や蔵書、電子媒体ではSmartCalendar、ブログなどがその代表である。今回は、それらの特徴を検討する。ポイントは記録された情報相互の非時間的な「関係」をどれだけ見通せるか、見通しやすいかとうことにある。
深刻な溝は紙かデジタルかの間にある。両者の大きな違いは、記録相互の非時間的な関係(リンク)を前者は頭の中に記憶として蓄えておかなければならないが、後者の場合にはそういう情報さえ顕在化させることができる、という点にある。
例えば、書物の中にはせいぜい引用や索引や文献等のリンクしか明示的に存在しないため、書物を読みこなすということが、頭の中にそれら以外の膨大な潜在的なリンクを記憶していなければ不可能であるのに対して、WWWを巨大な書物に見立てれば、そこでは、考えられる限りのリンクが明示的に存在する(ハイパーリンク)。したがって、WWWでは紙の書物を読む場合のような頭の記憶は必要ない。もちろん、その分、検索やウェブページ間のリンクを辿る労をとる必要はある。このことが一体何を意味するのか。これが今回の第一の問題である。
次に、現状のSmartCalendarとブログの特徴を比較検討する。
ポイントは、体験の記録がどこまで「自分のもの」であり、どこからが「他者のもの」であるのかという自他境界問題、「公開する」ことを巡る諸問題、そして公開すること自体の意味は何かという問題である。