カメラは記憶を想起させる


今朝の散歩では、迂闊なことに、デジタルカメラの充電をし忘れていて、四回シャッターを切ったところでバッテリーが切れた。こういうときにけっこう記録しておきたいものが目に留まる。数日前からの雨と風のせいで、木々の葉がかなり落ちた。幹と枝が露になって、濡れそぼった木々の姿は凛として美しい。中にはまだまだ真っ赤な葉を沢山つけた楓があるし、可憐な花をつけているものもある。植物たちの「時の形」は本当に千差万別だ。いくら見ていても飽きない。人間の世界もそうであってほしいと不図思う。父親が晩年風景写真を撮り続けた気持ちも少しずつ分かってきたような気がする。

ここ数日私に起っている顕著な変化は、カメラを持つようになって、シャッターを切る前後に、無意識のうちに、話しだしているということである。傍からみれば、たんなる独り言にしか見えないかもしれない。しかし普通の独り言とはどこか異質なのだ。かなりはっきりと誰かに向かって、誰かと話をしているという感覚を抱きながら、小声で「これ、いいねえ。すごいなあ。ちょっとなあ。」といった短い言葉から、かなり長い言葉まで、ほとんど意志的ではなく、会話している。それにはっと気がついてびっくりする。そういうときには、しばし立ち止まっていることが多いので、連れの風太郎は怪訝そうに私を見上げて、早く行こうと催促するかのように、リードを引っ張る。

考えてみれば、独り言は自分との対話、もう一人の私との対話であると言えるから、そのもう一人の私が、過去の私であったり、もしかしたら、記憶の中の他人、例えば死んだ父親だったりするのだろう。そう考えれば、カメラは、記録ツールである以上に、記憶想起ツールであり、極端な場合には死者との対話を惹起するツールでもあるのかな、などと考えはじめている。それもカメラの醍醐味、効用の一つなのかもしれない。面白い。