知ることの意味は何?

昨日講義を終えて研究室に戻り講義記録を書いていたら、ひとりの学生が訪ねてきた。相談があるという。一言では言えないその膨大な内容をその学生は言葉を選び選び慎重に慎重に言葉にした。「知ることにどんな意味があるのでしょうか」、「知らないほうが幸せではないのでしょうか」。「おー、来た、来た」と思って、私は嬉しかった。

問うことは難しい。上手に問うことができるようになれば、答えを手に入れたも同然である。抽象的な問いかけは少しずつ少しずつ具体的な問いかけに翻訳していくのがいい。そうすれば自ずと自分が本当に問いたいことが見えて来る。

学生と対話しながら、私はかつての私、もう完全に赤の他人のような若い頃の自分を思い出していた。

大学1年のときだった。私は「科学史」の講義をとっていた。教えていたのは岡不二太郎先生で、数学者の岡潔の弟さんだった。私は高校時代受験勉強の合間に岡潔の随筆をよく読んでいて、数学者に憧れたこともあった。あの岡潔の弟か、という関心からその講義をとることに決めたような気がする。記憶は曖昧だ。

岡不二太郎先生はその講義の中でけっこう哲学的なことを語っていたのだろう。講義内容はほとんど思い出せないのだが、ある日、講義が終わった後、私は退室する岡先生を追いかけて、声をかけ、唐突にも「人はなぜ生きるのでしょうか?」と哲学的な質問をしたことを鮮明に覚えているからである。こんな質問を向けるに足る先生だということを、講義から感じていたからに違いない。一瞬驚いた表情を見せた岡先生はその問いに即答せずに、「ちょっといらっしゃい」と私を研究室に招いてくれた。私が自殺でも考えていると思ったのかもしれない。

どんな研究室だったか全く思い出せない。どんな椅子に腰掛けたのかも覚えていない。岡先生が「君の質問は頭と尻尾を取り違えている」と言ったことだけは鮮明に覚えている。そしておそらく岡先生はその比喩をあれこれ敷衍してくださったに違いない。私はその場では先生の回答が飲み込めなかったが、しかし私にきちんと向き合ってつき合ってくださった岡先生に心底感謝した。後は自分で考えるしかないと思ったはずだ。

その後、盲滅法、手当り次第に色々と学んだり、考えたりして、(もちろん、ウィトゲンシュタインなんかも読んだりして)、「人はなぜ生きるのか?」という問いは私の中では解決ならぬ解消した。生きていることが大前提で、「なぜ」という問いかけはその後から来る、という意味での本末転倒を岡先生は言いたかったのだということが分かった。ただし、なぜ、そのような「なぜ」という疑問の形が生じるのかはもっとずっとあとになるまではっきりとは分からなかった。そして「生きる」、「世界」、「言語」という全体に対して「なぜ」という理由あるいは意味を問うこと自体が無意味であるという考えも学んだ。さらにそういう本末転倒が起るのには、必ずもっと具体的な小さな疑問が自分の中に控えているからだということも知った。

しかし往々にして人は、私自身も、そういう本末転倒で悩み、行き詰まり、袋小路に陥ることも知った。だから、そういうときには自分にとってはものすごく現実的な問題で、真剣に悩んでいると思い込んでいる問題の、実は抽象性、岡先生の言った「頭と尻尾の取り違え」を見抜き、それを具体的な問題へと解きほぐしていくことが、窮地からの脱出法であることを私は様々な局面で確認するようにもなった。

そんなことを思い出しながら、かつての大学1年生だったときの自分に答えでもするかのようにして、私はその学生に答えられるかぎりのことを答えた。学生は肩の荷が少し下りたような清々しい表情になって、丁寧にお礼を言って、帰って行った。

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もちろん、はなから具体的な問題で悩むこともある。しかしそういう問題の大半は高下駄のようなプライドを捨て、失うものは何もないと腹をくくって解消するしかない。残りはケースバイケース。私が日々接している大学生の悩みの多くは私が大学生だったころと同じで、基本的に抽象的であり、悩んでいる当の「私」の具体的な足場に目が行っていないことが多い。灯台下暗し。時に私はちょっと過激に「悩み方を間違っている」とか「間違った悩み方をしている」とか「正しく悩め」とか言ったりもするのだが、そう言われた学生はハッと何かに気付いたような表情を見せることが多い。

翻って、根っから組織的ではない私が組織の一員であるが故に直面する悩ましい問題は、答え(目的地)ははっきりしているのに、そこへ至る具体的な過程、手順が途方もなく複雑で困難が伴うような問題である。途方もなく複雑で困難なのは、そこに多くの他人の人生がかかっていると思うからだ。このような問題の解決のヒントは、やはり「人生がかかっている」という抽象性を解きほぐすことにあるのだと見当はついている。そしてそのためには関係するすべての人と対話を重ね、具体的な同意点、一致点を見出さねばならない。しかしそれは私の場合には怠惰なせいもあり、実際には完遂不可能で、従って問題の解決は不可能に近い。

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ところで、「知ることにどんな意味があるのか」に対する直接的な答えは「それを知るために、具体的なことをたくさん知っていくんだよ」である。禅問答みたいだが、真実である。もっとカジュアルに乱暴に言えば、「色んな意味があるに決まってるじゃない」である。正確には、そのような問い方自体が無意味であって、実は知ること自体が意味に満ち満ちているのだよ、ということでした。
だから、知らなければよかったなんて思うとしたら、それはまだよく知っていない証拠で、もっと知れば、きっと知ってよかったと思うはずだ。そもそも知ることは楽しいはずなんだよ。どこかで知ることを停止することが、暴力を生むんだ。知ることを楽しみ続けることが「哲学」の原義でもあって、そこから色んな諸科学も生まれたんだよ。詩と哲学の関係はちょっと複雑で、ロング・ストーリーになるから省くけどね。La Gaya Scienza(楽しい知識)って言うじゃない。楽しいと思えるまで、具体的にどんどん知ること。そしてもし、知ることは究極的には本当はつまらないということを知るにいたったら、それはそれで凄い境地かもしれないよ。俺には無理そうだけどね。

もしかしたら、人間の知るという作業の目的は人間には知ることができないことがあることを知ることなのかもしれないんだから。結局は、例えばクジラになるしかない、とかね。最近は実は美崎薫さんて人に会って、そんなことも考えはじめているんだけど。それはもう少し先の話ね。