昨日からのコメント欄における検索(特に、画像の検索)に関する議論で噴出した論点を整理するために、まずは各氏の興味深い見解を引用しておきたい。
美崎さんのコメント1
「記憶する住宅」には、「SmartCalendar」以外に、ハイパーテキスト群という強力な構造があり、これを使うことで、とくにこの数年、探し物が見つからなかった、という体験が、極端に少ないことを実感しています。探し物のうち44%は名詞をタグにすれば見つかる。残りの56%を検索するには、最低でも全文検索が必要です。最低でも、というのは、全文検索でもまだ足りない、ということです。シソーラスといっている、「意味検索」ですね。連想検索といってもいいんだけど、それがないと、だめだろうと思います。下からいうと、タグ(キーワード)-OCR-全文フルテキスト-シソーラス(意味、連想、ハイパーテキスト)となると思います。
本はスライドできない。それが悩ましいところですね。ほんとに悩ましい。結局、本というのは、文字なのだなと思うことがあります。文字ならばテキストでよい、ということかなと。本がテキスト(文字の集まり)なのか、ページなのか、オブジェなのか、というのは、シチュエーションによっても変わるから、一概にこれだと決めつけることはできませんが、テキストとオブジェクトと、両方の属性をもっていれば万全かと。
いつもおなじものを見ると人間の感覚はまひしてしまう。飽きてしまうのです。飽きるとなにも起きないので、つねに新しいものが流動している必要があります。これに相当するものを、わたしはハイパーテキストですでに手にしていて、その密度の高さは、Googleで出てくるノイズの比ではないので、きわめて効率的で、それを触っていると、ノイズのなかにサウンドが出てくる密度(セレンディピティ率?)が高いものほうが魅力的だと感じるということですね。SmartCalendarが飽きないかというと、まだだめだろうと、もっとハプニングをたくさんもたらすようにしないとだめだな、と感覚的には感じています。
あまりにも想起するものが多すぎて、話し始めたら止まらない、きりがないので、ぜんぶ捨てて流した、ということなのです。わたしが軽く見えるとしたら(そう見えたのはうれしい)、そういうたくさんのことを短時間で伝えることをあきらめているからなのかも。
三上の理解した限りでの美崎さんの探究プロセス:
fuzzyさんのコメント
美崎と三上の場合、「検索対象が本人の経験・体験の範囲」という条件が厳しい
「他人の頭の中」を探る作業の必要性
美崎さんのコメント2
問題は能動的に探したいときにずばり「それ」が出てくること
まず最初に検索に使うのはハイパーテキスト化した日記
写真にタグがつけられるか。たぶんつけられない。とじつはわたしは思っています。
イヌといって想起するのは具体的な犬のイメージであって、漠然とした「犬というもの」ではないですよね。原型。
文章を大量に書き、世界のタグづけを表現しつづける
まず自分を確立しなくて、どうして他人とコミュニケーションできるのでしょう。自分の輪郭を知るためには、自分自身を見つめることが必要ではないかと思います。もちろんこれは逆のいい方もあって、他人とのコミュニケーションを通して自分の輪郭がはっきりするのだ、ということも可能かと思いますけどね。だから、それは単に立ち位置が違うということだろうと。
なにか刺激を受ければ、それに纏わるものを探したくなる。
ほとんどすべてが受動的なものだと思うのです。だからSmartCalendarは受動的な表示を重視してます。受動を能動に変えるのがSmartCalendarです。探すのは、ただ、ふといろいろなことに気づいたときに能動的に探す「こともある」だけです。時間の割合でいうと、1:99くらいで見ているだけのほうが多いです。写真を探そうなんて、ほとんど思ってない。見ればそれだけで楽しいのが写真です。ただ「探すことはあるのか?」と問われれば、「ある」と答えただけです。ほとんどのときは受動的に見ているだけ(あるいは流しているだけで見てさえいない)のです。だからSmartCalendarは、受動的に見ているときにもっともよくなるようにデザインしています。
探すというより「出てくる」のですよ。SmartCalendarを使うと。見えるから。
mmpoloさんのコメント
検索表
ある種の画像検索(色と形と動きを一目で同定)
美崎さんのコメント3
名前というのは、強力なレッテル(タグ)として使えます。魔法使いや陰陽師が名前を秘密にする理由がわかります。
神話では神は名を明かさない、神の名は発音できない文字列だったりする(三上)
美崎さんのコメント4
タグをつけるというのは、「言葉が先か概念が先か」という問いですね。