忘れっぽい天使

先週は祭日でお休みだったので、今日は2週間ぶりの講義だった。その間に、東京にHASHI展を訪れ、美崎薫さんの「記憶する住宅」を訪問した。その時の深い体験をブログに書くことを通じて追体験を繰返し、また相変わらず毎朝写真を撮り続けて見えるものが増えてきた私は2週間前とは別人だった。2週間前の私と今日の私が同一であることを保証するものは何なのだろう、と考えていた。「三上勝生」という固有名だけのような気がしていた。同じレッテルが貼られているだけで、中身はすべて入れ替わったような感覚がある。

私にとっては、過去の自分は謎ではない。他人の目に映るであろう自分も謎ではない。謎という言葉自体が謎のような気もするが、それはさておき、私を驚かすものごとが、それが意味をなすまでの間、謎でありつづけるのだと思う。他人は様々な程度で謎である。世界も色んな風に謎めいている。しかしそういう意味での謎はあまり人気がないようだ。

40年以上前に撮影された一枚の写真を1ヶ月以上、断続的に見続けている。そこには幼い私が若々しい叔父(先日亡くなった)、叔母、従弟と一緒に写っている。「これ」は「私」なのか?そのときの記憶はない。その写真が記録としてあるのみ。

記憶とは何かと改めて考えはじめていた。過去のある時点の記録としての写真をいくら見てもその時のことを全く想起できないことは何を意味するのか。記憶の想起って、ありうるのか?

以前から、「忘れる」という言い方にひっかかりを感じていた。何かを忘れていたことがどうして分かるのか?忘れていたことを思い出すという言い方は誤った言葉の使い方ではないのか。想起できるということは忘れてはいないということで、忘れてしまったことは思い出せないはずではないか。それを知ることすらできないはずだ。ということは、想起とはやはり何らかの記録が脳か外部に存在し、それを検索することであり、全く記録されていないことは検索不可能、想起不可能である。

記憶とはどこかに何かの形として記録されてあることを意味する。少なくともどこかに記録があることを微かにでも覚えていなければならない。だから、そこから何も思い出せないような写真という記録からは、必要なら、新たに記憶を作り出すしかないのだろう。

上の写真を手がかりに、しかし、私はどんな風に記憶を作ることができるのだろう?一種の物語?歴史?エピソード?いずれにせよ、その写真が残っていなければ、そんなこともできない。



今日は復習を兼ねて、ウィトゲンシュタイン美崎薫の「永遠の現在」の様相、独我論からの出口に関して身ぶり手振りを交えて解説した。身ぶり手振りが必要だったのは、過去は背後から現在に迫り、未来は前方から現在に迫るというイメージを説明するためにだった。その時、あるイメージがちらつき始めていた。それはベンヤミンが大切にし、それについて書きもしたパウル・クレーの絵「忘れっぽい天使」のイメージだった。

帰宅してから、ポストカード用のホルダーを取り出し、「忘れっぽい天使」を探した。あった。20年以上前に買った絵葉書だった。天使は目をつむっていたのだった。過去に目をつむる、つまり「忘れっぽい」天使は、未来を見据えることなく、どこへ向かうか分からない状態で未来へと吹き飛ばされるイメージ。私が講義で身ぶり手振りを交えて説明したイメージとは真逆だった。

忘れない天使、記憶する天使を描いた例はあるのだろうか。もし今私が描くとしたら、見開いた両眼から血の涙を流している天使を描くかもしれないと思った。

後半、ウィトゲンシュタインが「私の世界」から語りえない謎として追放した「他者」を、むしろ積極的に受け入れるための作法について説明しているうちに、HASHI(橋村奉臣)さんを連想し、"Life is Timing."の考え方を解説した。さらけ出すことで、明け渡すことで、幸運を呼び込む作法を身につける、等々。

世界の全知状態に近づくことで「血を流し続ける」という美崎薫さんの言葉=イメージはまだ謎のままだ。