本という神話

検索という観点から、改めて、本という情報メディア(媒体)について考え始めていた。

索引や引用や参考文献リストは、明示的なリンクである。索引は当の本=テキスト内部のリンクであり、引用や参考文献リストは他の本=テキストの部分や全体へのリンクである。

ところで、そのような明示的なリンクだけでなく、実は一冊の本自体が他の本への潜在的なリンク集とみなすことができる。言い換えれば、本とはそれ自体が索引集である。もちろん、そこには他の本以外の作者の体験の記憶への索引も含まれるだろう。

一冊の本は著者の体験への索引集であると言えるとすれば、そこには言葉=テキストにならない、なりにくいような情報へのリンクも秘かに張られていると考えることもできるだろう。

読書とは、本に内蔵された顕在潜在のリンクを自分の体験(その中には他の読書体験も含まれる)とリンクさせることであると考えられる。テキストの意味内容のみならず、頁の上にコーヒーをこぼしたり、思わず書き込みをしたりして残された「汚れ」もまた、読者にとっては体験へのリンクである。

本はオブジェクトとテキストから成るという美崎薫さんの明快な洞察を引き受けて言えば、オブジェクトとしての本への愛着はテキスト外の体験への潜在的なリンク、索引に由来すると言えるだろう。

本という情報メディアに関する認識は混乱していることが多い。情報という観点から見て大切なことは、先ずは
1)全テキスト空間における顕在および潜在的なリンク
2)著者および読者の言語化=テキスト化されざる体験へのリンク
という二種類のリンクを区別することである。

次に、1)に関しては、情報デザインにおける情報建築の観点からは、基本的にすべてのリンクを顕在化させるWWWの方が優れていると思われる。

2)に関しては、現在のところ、断然、本が優れているが、bookscannerさんが試みている本の電子化においては、非言語的索引、リンクさえ含まれつつあるので、予断は許さない。

このように考えれば、本を一個のオブジェクトを見なすことは、人類史上最も根深い「神話」なのかもしれないと感じられもする。

翻って、私が惹かれ続けて来た詩人吉増剛造さんが書く本は、以上のような考察さえとっくに踏まえた上での「本ならざる本」であるように感じて来た。そこでは、リンク、索引が、テキスト空間を超えて、自他の体験の記録へまで伸びていている。吉増剛造さんの本を開いた瞬間に、いつも私はいわゆる「割注」、異常な過剰な「リンク」が、リゾーム状というか、ハイパーリンクを彷彿とさせるのに驚く。

(まだ拙すぎる考察ですが、いかがですか。どなたかご意見、ツッコミを。)