ライフログとプライバシー

美崎薫さんが報告している『Pervasive2004』を読んで、コンピュータの未来形を探る研究は人間の未来形を探る研究と分ちがたく結びついていることが印象的だった。しかし、ことネットワーク上に流通、流出する情報の扱いということになると、古くて新しい問題が頭をもたげてくる。そうなると、どんなに科学と技術が進歩しても、ソクラテスプラトンアリストテレスの時代に引き戻されたような錯覚に陥る。

ウェブログライフログに関する議論にはいつも必ず、いわゆるプライバシー問題がつきまとっている。美崎薫さんの『PLACE+』の報告でもそうだった。どんなログ(記録)をどうやってとって何に応用するかに関しては、生き生きと歯切れよく語る研究者たちも、ことプライバシー問題に関してはにわかに歯切れが悪くなるのが印象的だった。

プライバシーを守ることは重要である。

河口助教授が「Wi-Fiラッキングシステムはログをとられたら怖い。どう乗り越えたらいいんでしょうね。盗撮カメラとおなじレベルで個人情報が漏れ、無線LANの機器は小さくなればずっとわかりにくくなる」と疑問を投げかけた。いま現在は、研究者などが実験的に使っている段階だが、一般に広まると、どのように使われるかわからない。「パンドラの箱を開けているような気がする

暦本氏は「ソニーCSL所属で、外部での仕事が多く、必然的に移動も多い脳科学者の茂木健一郎氏に実験的につけてもらおうというアイデアがあるが、微妙に嫌がっている。プライバシーがあるのだなと思うが、どれがプライバシーなのかがわかっていない」のが現状だという。

プライバシーを守るためには、なにがプライバシーなのかを知る必要がある。もちろん、いまここにいるということは、たとえば自宅は留守である、ということを意味するため、基本的にいまここにいるという身体情報は、きわめて高度なプライバシーで守られる必要がある。その範囲をどこまで共有するのかなど、課題を整理して社会的な合意を作っていく必要がある
http://journal.mycom.co.jp/articles/2006/11/28/placeplus/005.html

私の考えでは、プライバシー問題は個人と社会の両面からはさみうちする必要がある。個人においては「どこまで公開するか」問題を日々配慮しなければならないし、社会においてはどんな情報をどこまでだれに利用することを認めるかに関して議論し決定する開かれた場を設ける必要がある。

プライバシーに関しては近年多くの議論が積み重ねられて来た。私の知るかぎり、最近では、プライバシー権を自己情報コントロール権としてとらえる見方が登場して、昨年は金沢地裁住基ネット違憲判決をめぐって物議をかもしたりした。この辺りに関する詳細な歴史的知識と突っ込んだ議論と良識と見識は白田秀彰さんにお任せすることにして、ここでは、一ネット利用者としての私の非常識かもしれない取り組みについて振り返ってみる。

ちなみに個人情報保護法をめぐる学校や病院などにおける各種の混乱が、関係者の「個人情報とは何か」に関する議論や認識の欠落を露にしたことは記憶に新しい。私は法律以前に、実社会であれネット上であれ、ここまでは公開する、したがって原則的にはどう利用されようが文句はつけない、という線を市民ひとりひとりが自覚することが先決だと考えている。簡単ではないと思うが。

そもそも私の場合、「個人情報」といわれてもピンと来ない。「個人」という表現のなかに、すでに社会の側、政府や行政の側の管理と支配の視線が現れている。そのこと自体は悪いことではない。しかし、法律に拘束される個人の側、私たちひとりひとりは、抽象的な個人ではなく、あくまで「私」である。「この私」に関する情報をどうするかは私の裁量のうちにあると考えるのは当然である。そしてその裁量のうちで、公共の利益や福祉のために、「どこまで公開するか」という線引きについて日々ちゃんと考えておかなければならないことも当然である。さらに、その場その場で臨機応変に対応できるようにしておくことも。つまり、いつでも「考え直す余地」を持っていることも。

美崎薫さんの『PLACE+』の報告では、プライバシー問題に関しては当面は「社会的な合意の形成」に委ねるほかないというのが結論だった。しかし、民主的な合意形成のプロセスがほとんど期待できない社会だと思っている私は、誰かに委ねてしまうわけにはいかないなと常々思っている。だから、例えば、ブログを毎日書きながら「どこまで公開するか、できるか」を自分に、そして姿の見えない読者の方々に問いかけている。

「さらけだす」という表現を使うこともあるが、私がこれまで書いて来たことや、プロフィールに書かれていること、そこからたどることができる社会的身分などは、たしかに「私に関する情報」ではあるが、いちいち「個人情報」として保護してもらう必要などないものだと思っているし、そんな程度で「さらけだす」とは言えないとさえ実は思っている。そんな個人情報を超えたところで結ばれる新たな関係やコミュニケーションが生まれなければ本当は意味はないと思っている。

極論するなら、ウェブログにもどんなライフログというログ(記録)にも永遠にならない記憶こそが、私の真の「プライバシー」であり、人生を支えている。むしろ私が冷や汗をかくのは、私が書くことのうちに私以外の他人の情報があって、それが当人のコントロールを超えて利用されている面があるときである。ここに、「この私の情報」といっても、家族から友人、知人、旅先で出会った見知らぬ人まで、私自身ではない他人が分ちがたく混在しているために生ずる彼ら/彼女らにとっての「プライバシーの問題」が現れている。だから、プライバシーの問題とは実は根本的には「私の情報」をめぐる問題ではなく、「あなたの情報」をめぐる問題なのかもしれないと考え始めている。一人称問題ではなく二人称問題。

個人情報が犯罪に利用されるとか、様々な組織や機関や国家権力にいたずらに乱用されるという問題は社会の側からじっくりと検討しなければならないのは言うまでもないが、それと同時に、それ以前に、何が起ころうともあたふたしないで自分のことくらいはてきぱきと捌けるようにしておくことは必要だと思うし、その意味では、普通の意味でのプライバシーなど全く心配する必要のない生き方、人生観を鍛えておくことが今の社会では実は何よりも大切なことなのかもしれないとも思う。