記憶と物語

作家の片岡義男さんは、人はある時代をその時代特有の物語によって生きること、そして時代は終わっても、その記憶は物語という形式で記録されることをさりげなく平易に書いている。

この物語の背景は、現在ではありません。いまではない、あるとき、そして、ここではないどこかでの、物語です。いまは大学に女性がたくさん進学していますが、新入生をいくつかのクラスに分けると、ひとつのクラスに女性がひとりずつしかいなかった、そんな時代の物語が、ここにあります。ひとつのクラスに女性がひとりしかいない時代ではないと、ここにあるような物語は、成立しないのです。したがってこの物語は、現在ではとっくに失われている物語です。現在は現在であることにより、多くの物語をあらかじめ失っているのです。
片岡義男『海を呼びもどす』(同文書院)3頁
ISBN:4810376710

これを読んだ時、片岡さんよりも10年あまり後、私が大学に入学した1976年でさえ、希望した第二外国語によって振り分けられた4,50人のクラス、ロシア語のクラスには、女性は3人しかいなかったこと、そしてクラスの半分が女性であれば成立しないような物語がその内のひとりの女性をめぐってたしかに成立していたことを懐かしく思い出した。

作家の高橋源一郎さんはかつてどこかで小説を書くとはひとつのすぐれた「考える方法」であると書いていた。そのとき、なるほどと思った。そして考えることは、そのままでは無縁な事柄、物事どうしの間に面白い連絡をつけることだとすれば、その結果としての作品は思考の記録であると同時に記憶であり、それが「物語」の形を好むとすれば、逆に「物語」という形式こそが実は記憶や記録、思考の秘密なのかもしれないと思った。だから、だれかに物語るように記録する、記憶することが大切なのだとも。また物語には聞き手の存在が欠かせないから、物語とは本質的に対話であるとも。対話的物語。対話的物語的記録、記憶。

ウェブログが流行る理由の根底には、そのような「物語」、現代という時代の物語への渇望があるような気がする。実世界では失われかけている対話への渇望。そこでの物語る経験が実世界へとフィードバックされればいいのだと思う。